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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
備中松山城の本丸は標高430mの臥牛山山上にあり、その不便さから建造物が解体されなかったため、明治6年の廃城令後も建造物が残っています。
本丸の建造物群 現存する建造物もありますが、史実に基づいて復元されたものもあります。 本丸東側の石垣と土塀(復元) 昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングでも、ロケに使われていました。 本丸東御門(復元) 備中松山城に現存する建造物の中でも、見どころはやはり天守でしょうか。 備中松山城天守(国指定重要文化財) 全国に数ある天守の中でも、堂々「現存12天守」の一つです。 天守の板張り部分は、一般的な横板張りの「下見板張り」ではなく、珍しい「竪板張り」です。 天守の中にも入ってみました。 天守内部 破風(天守内から見たところ) 本丸(天守より) 二の丸と高梁市街地の方向 二重櫓(現存、国指定重要文化財) 備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代の1240年に地頭の秋庭重信が臥牛山に砦を築いたのが始まりとされています。 その後城主は高氏や尼子氏などの有力者の支配となり、戦国時代の1561年には毛利元就の支援を受けた三村家親が城主となりました。 その三村家親は織田信長と結んで毛利氏に反旗を翻し、1574年からの毛利・宇喜多連合との戦いである「備中兵乱」で敗北し、滅亡しています。 関ヶ原の戦い後、備中松山城に入城したのは、小堀政次・小堀政一の父子でした。 小堀政次の急死によって城主となった小堀政一は、現在残る近世城郭の修築を行っています。 小堀政一というより、作庭の名手「小堀遠州」の名前の方が有名ですが、小堀遠州は山麓の頼久寺で政務を行っていたようです。 頼久寺には小堀遠州作の庭園が残っていますが、あろうことか見逃しました。。。 岡山県高梁市のHPに頼久寺の庭園が紹介されています→こちら 城郭に関して言えば、加藤清正や藤堂高虎が土木の達人で、小堀遠州が建築の達人といったところでしょうか。 現在備中松山城に残る天守を始めとする建造物の作事は、小堀遠州によるものです。(と信じています) 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/13 01:31:05 PM
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