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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
三段に分かれた本丸のうち、中の段と本段の間には不明門の渡櫓が復元されています。
不明門(外側から見たところ) 内側から見たところ 岡山城の建造物は明治6年の廃城令による取り壊しや、太平洋戦争の空襲によって焼失したりしましたが、昭和39年に建物の一部が復元されました。 六十一雁木上門(復元) 本丸本段の周囲にある土塀も復元されたものだと思います。 本丸本段と中の段の間には、不明門とは別に埋め門のような搦手虎口があり、その先は廊下門の櫓門へと続いていました。 搦手の虎口 なかなかトリッキーな縄張で、天守の裏から廊下門の渡櫓に直接行けるようになっています。 廊下門(復元) 廊下門の渡櫓 岡山城の天守は太平洋戦争の空襲で焼失してしまい、戦後に外観復元されたものです。 1597年に建てられた天守は、入母屋の上に望楼を乗せた古いタイプで、さらには天守台が不等辺五角形をしているため、こんな形になっています。 黒漆塗りの下見板張りは立体感がなく、正面から見ると2Dの書割を見ているような感じです。 元々は金光氏の戦国城郭であった岡山城でしたが、1591年から1597年までの年月をかけ、現在に残る近世城郭に改修したのが宇喜多秀家です。 本丸中の段には、宇喜多秀家時代の石垣が保存されています。 宇喜多秀家と言えば、豊臣秀吉の時代には徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元と並ぶ五大老の一人です。 岡山城を本拠地として57万石を有し、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将を務めました。(総大将は毛利輝元) 関ヶ原の戦い後は逃走を続けた宇喜多秀家でしたが、ついに発見されて最後は八丈島に島流しとなっています。 (八丈島へ島流しとなった一番初めが宇喜多秀家でした) 以前八丈島を訪れた時に聞いた話ですが、大名であった宇喜多秀家を始めとして、八丈島には政治犯などの知識階級が流されてきたそうです。 八丈島では幽閉されることなく自由に行動できたそうで、おかげで八丈島の教育レベルは格段に上がったとのことでした。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/13 01:30:31 PM
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