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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
岡山城の北東側、旭川を挟んだ対岸に後楽園があります。
岡山城天守から見た後楽園の遠景 後楽園の名前は明治になって付けられたもので、岡山藩のあった江戸時代には「御後園」と呼ばれていたそうです。 正門 正門を入ってすぐ右手に見える建物が延養亭で、藩主が訪れた時の居館として使われていました。 後楽園の造営が開始されたのは、池田綱政が岡山城主であった1687年のことで、14年かけて1700年に完成しています。 江戸時代の大名庭園の風情を残しつつも、岡山城と同じく太平洋戦争の空襲で建造物の多くを失いました。 延養亭も太平洋戦争の空襲で焼失し、戦後になって復元されたものです。 栄唱の間・能楽堂 花葉の池と大立石 建造物の中には、空襲の焼失を免れて残っているものもあります。 廉池軒 慈眼堂 池や水路が多く配された回遊式庭園にあって、中でも最大なのが「沢の池」です。 沢の池の「中の島」 その中の池のほとりにあるのが「唯心山」で、標高6メートルながらも中々の山容です。 標高6メートルが立派な「山」になるのも、庭園ならではでしょうか。 唯心山から見た沢の池と中の島 延養亭 岡山城から見ると、旭川を隔てた北東の対岸にある後楽園は、防御の薄い北東の曲輪のような役目だったとも言われています。 馬場があったり田畑があったりと、軍事的な側面も垣間見られました。 それでも様々な変化のある回遊式庭園は、散策していても飽きることがありません。 明治になって一般開放された時に命名された、「後楽園」の名に恥じない名園だと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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