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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(宮崎・鹿児島編)
飫肥城には本丸以外にも松尾丸と旧本丸の2つの曲輪跡が残っています。
松尾丸の石垣 本丸の石垣に比べると、打込み接ぎに近い切込み接ぎなので、本丸より古いのかも知れません。 松尾丸には御殿が再現されており、こちらも史実に基づかない模擬再建です。 二条城や岡城などの書院造の建造物を参考にしたそうです。 花頭窓もあったりします。 昭和54年に建てられたもので、江戸時代の在来工法によるものです。 かつての本丸があった飫肥小学校の校庭から見ると、裏山のような一段高い場所があって、ここが旧本丸になります。 旧本丸の石段 旧本丸虎口の桝形 飫肥杉が立ち並ぶ旧本丸の曲輪跡 搦手口には裏門が置かれていますが、こちらも再建されたものだと思います。 かつての旧本丸には御殿が建っていたのですが、何度かの地震で地割れが生じたため、現在の本丸跡(飫肥小学校)に移されました。 明治に入るとその本丸はを明治政府に明け渡したため、明治2年に藩主の御殿と庭園が新たに建てられ、現在も「豫章館」として残っています。 豫章館は大手門を出たすぐの場所にあるのですが、この日(9月23日)は泰平踊の日で、豫章館には入りづらい感じでした。 右側に見える門が豫章館です。 飫肥城が史料に出るのは1458年のことで、日向に勢力を伸ばす伊東氏の南下に備え、島津氏が家臣である新納(にいろ)忠続を志布志城から入城させたのが始まりです。 (島津や新納の名前が出てくるあたり、南九州に来たことを実感します) その後は1世紀に渡って島津氏と伊東氏の攻防戦が繰り広げられますが、1587年に豊臣秀吉の九州平定に味方したことで、伊東氏が飫肥を与えられました。 1600年の関ヶ原の戦いでは、伊東氏は徳川方の東軍についたことで飫肥を安堵され、以後明治になるまで伊東氏が飫肥藩の藩主となっています。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/05/02 06:18:34 AM
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