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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(愛知編)
名鉄岐阜から各務原線に乗って終点犬山で降りた後、さらに犬山からは名鉄小牧線で名古屋市内を目指しました。
名鉄小牧線の小牧駅を最寄りとするのが小牧山で、かつては小牧山城が築かれていました。 犬山城天守から見た小牧山 小牧山とは言え標高は85.6mしかなく、山というよりは丘といった感じです。 岐阜城から見た小牧山 それでも濃尾平野でさらに独立峰となれば、築城するには高度以上の価値がある地形です。 実際に戦国時代の1584年、豊臣秀吉軍VS織田信勝・徳川家康連合軍の「小牧・長久手の戦い」で、徳川家康はまずこの小牧山に陣地を敷きました。 小牧山城縄張図 搦手にあった案内板ですが、小牧山城の縄張がよくわかりました。 小牧城跡は小牧山公園として整備されており、小牧駅に最も近い南東側には、小牧・長久手の時に徳川家康が築いた空堀と土塁が残っています。 南側の空堀 南側の土塁 城郭には築城主の性格が出ると思っていますが、小牧山城の縄張を見る限り、用心深さと慎重さを感じました。 かつての大手口に回ってみると、土塁も一層高くなっている気がします。 大手付近の土塁 甲州武田氏が滅亡した後、徳川家康は旧武田氏の家臣を召し抱え、軍制も武田流に変更したとされています。 築城でも武田流の築城術を真似たならば、大手口には丸馬出くらいはあったかも知れません。 大手口の登城道 大手から斜面を登っていくと、腰曲輪と土塁が何重にも張り巡らされていました。 腰曲輪跡 現在遊具が置かれている広場は、「桜の馬場」の名前が付いていたようです。 桜の馬場の腰曲輪跡 桜の馬場に続く土塁 山麓から頂上の本丸まで、腰曲輪と土塁が交互に続く感じです。 本丸直下の腰曲輪 本丸には石垣が残っており、発掘調査の結果、織田信長の築城時に築かれたものと判明しました。 石積みの技術としては初期の古い技術で、野面積みもさることながら、石垣も高く積めなかったようです。 発掘調査で出土した裏込石 山頂の本丸には、天守の形をした「小牧歴史館」が建っています。 小牧歴史館 史実に基づかない鉄筋コンクリート造りの模擬天守ですが、個人の私財によって建てられたものです。 天守の最上階に登って南側の大手方向を見渡すと、かつての城下町を望むことができました。 織田信長が整備した小牧山城の城下町は、商工業都市として発展し、その後の楽市楽座の原型があったとされています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/11/06 08:47:28 PM
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