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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(愛知編)
小牧山城の大手口から山頂の本丸へ、さらには山麓の東側から北側へと回って来て、なかなか見どころの多い城郭だと思いました。
遺構もさることながら、織田信長が築城し、徳川家康が豊臣秀吉との戦いで陣を置いた小牧山は、歴史のターニングポイントでもあったように思います。 小牧山城は1563年、織田信長が清須城から本拠地を移すために築いた城です。 小牧山城天守から見た清須城の方向 織田信長が清須から本拠地を移すにあたり、小牧山が本命だったのですが、辺鄙な場所だったので家臣団の反発を予想していたと言います。 そこで小牧山よりさらに辺鄙な場所への移転を持ち出したところ、当然ながら家臣団は反発しました。 そこで「ならば小牧山ではどうか」と言ったところ、「小牧山の方がまだまし」と家臣団も賛成したと言います。 (織田信長らしからぬエピソードだとは思いますが) ところで織田信長は、元来の那古野城→清須城→小牧山城→岐阜城→安土城と、生涯で4度も本拠地を変えています。 (本能寺の変がなければ、安土城の次は大阪だったとされています) 小牧山城天守から見た金華山(岐阜城(稲葉山城)) 本拠地を変えることはもちろん、旧国名でいうと尾張→美濃→近江→(摂津)と変わるのは、当時の戦国大名としては異例のことだったと思います。 現代風に考えるならば、本社を移転することすら一大事なのに、さらには日本から海外各地を転々とするようなものでしょうか。 個人的にどの時代の日本史でも「コメの歴史」、すなわち稲作に依存した歴史だと考えると、あらゆることが腑に落ちてくると思っています。 古来よりコメそのものが給料であり税金であり、流通貨幣でもありました。 (日本史で登場するあらゆるヒエラルキーも、ここで納得できるかと思います) 大名の財力も「石高」すなわち「いくらコメを作れるか」で決まっており、コメを作り出す父祖伝来の地を守ることは当然のことかと思います。 戦国大名も常に合戦をしていたわけでなく、配下の兵も普段は農業に従事しているため、合戦もやむなく農閑期に行われていました。 その農業経済を最初に商工業経済へと移したのが、織田信長だったではないでしょうか。 農業経済から脱却することで、農閑期以外にも軍を持つことができ、いつでも合戦ができる常備軍を持つことができました。 そう考えると、いち早く「コメの経済」から脱却すべく、小牧山城の城下町に計画的な商工業都市を造ったのも納得できる話です。 (後の岐阜や安土の商工業城下町、楽市・楽座につながる原型がここにあったと思います) 話を小牧山城に戻すと、織田信長が岐阜城へ移ってしまったため、廃城となっていました。 そして1584年、織田信雄・徳川家康連合軍VS豊臣秀吉軍の「小牧・長久手の戦い」で、この小牧山城に目を付けて陣を置いたのが徳川家康です。 そして徳川家康と豊臣秀吉が唯一合戦を行った舞台でもあります。 徳川家康が局地戦で勝利したものの、織田信雄の単独和睦により、「判定負け」といったところでしょうか。 小牧山天守から見た長久手方面 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/11/08 02:38:58 AM
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