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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(沖縄編)
奉神門から先が正殿のある「御庭(うなー)」となり、ここからが有料エリアとなります。
奉神門 毎朝8:30になると、奉神門では御開城の儀式が行われます。 今回早起きして首里城に来たのも、この儀式を見るためでした。 銅鑼が鳴らされ、門番の方の「うけーじょー(御開城)」の発声を合図に門が開くと、修学旅行生達も一般観光客の人達も城(ぐすく)めぐりの私も、皆ぞろぞろと中へ入って行きました。 奉神門の先には「御庭(うなー)」があって、その奥に正殿があります。 正殿 御庭は様々な儀式が行われた広場で、色違いの「磚(せん)」と呼ばれる敷瓦が敷いてあります。 これは儀式の際に、位の順に並ぶための目印でもありました。 かつての儀式の復元模型 正殿の創建は発掘調査の結果、14世紀末頃と見られています。 その後は何度か焼失と再建を繰り返し、18世紀初めに再建された正殿も、沖縄戦で焼失してしまいました。 現在の正殿は、沖縄戦まで残っていた正殿をモデルにして、平成4年に復元されました。 復元された正殿には、中に入って見学することもできます。 正殿内部は1階と2階に分かれていて、1階は主に国王自ら政治や儀式を執り行う場所で、2階は常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した場所でした。 2階にある「御差床(うさすか)」は国王の玉座で、様々な儀式や祝宴が行われたところです。 御差床(うさすか) 「中山世土」の扁額は清の康煕帝によるもので、「琉球は中山が代々土地を治める」の意味です。 御差床の向かいには、「唐破豊(からはふ)」の部屋がありました。 日本城郭の建築物では「唐破風」と書きますが、首里城ではなぜか「唐破豊」と書くようです。 御差床は1階にもありましたが、2階の御差床に比べると、質素な感じがしました・ 1階の御差床 こちらは日常的に使われていたのかも知れません。 首里城では、国王が日常の執務を行った「御書院」の広間があり、南殿に隣接しています。 御書院の間 意外なことに、純和風です。 御書院からは、「鎖之間(さすのま)」と庭園を眺めることができ、御書院・鎖之間・庭園で国の名勝に指定されています。 鎖之間 琉球瓦に障子張りの組み合わせが奇特な感じです。 庭園 こちらは蘇鉄と松の組み合わせが妙です。 首里城は1429年の尚巴志による琉球王国統一後、1879年まで琉球国王の居城でありました。 実際の築城時期はもっと古く、14世紀半ばだと言われています。 1469年の政変で第一尚氏王統から第二尚氏王統へ政権が移り、1609年には薩摩藩の支配下に置かれたりしましたが、琉球王国の形態は450年間も続いています。 ところで幕末の黒船来航と言えば、浦賀沖の出現が有名かと思います。 実はその1ヶ月半前にペリーは黒船を率いて琉球に来航し、上陸までしていました。 この時は首里城を訪れて国王に面会したそうです。 後の太平洋戦争では城郭が殆ど滅失し、戦後は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、1972年から復元整備が進められ、1992年に正殿・北殿・南殿等の内郭の復元整備が終わりました。 そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録されました。 日本城郭協会「日本100名城」 ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/12/18 05:22:49 PM
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