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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(沖縄編)
今帰仁城の主郭(本丸)も石垣の城壁で囲まれており、14世紀中頃(1300年代)にはすでに石積みになっていたそうです。
野面積みの石垣ですが、日本城郭でこれだけの石垣が造られるのには、あと200年ほど待たなければなりません。 主郭には「里主所火の神」が祀られていて、尚氏による琉球三山統一後に建てられたものです。 里主所火の神 尚氏の中山から派遣された監守が、1665年に首里に引き揚げた後も崇めれてていて、現在も参詣者が絶えないそうです。 主郭は本丸と同様の機能があったようで、建物の跡が残っていました。 建物跡 礎石も石垣で造られているのがお見事です。 城壁で囲まれた主郭のさらに奥には門があり、その先にも曲輪が連なっているようです。 主郭の先には「志慶真(しげま)」と呼ばれる曲輪があり、建物の礎石跡も残っていました。 志慶真の曲輪跡 本丸からは一段低い場所にあり、城主に使える人たちが生活していたとされています。 志慶真から見た主郭城壁 今帰仁城の主郭から降りてくると、周辺にはいくつかの集落跡がありました。 ムラ跡 主郭を中心として、城壁で囲まれた城下町が形成されていたのかも知れません。 その意味では、大陸の城郭都市の影響が大きいのかと思います。 14世紀の琉球は、北部地域を北山・中部地域を中山・南部地域を南山が支配した「三山鼎立の時代」で、中国の史書にもその三王の名前が登場します。 今帰仁城を拠点とする北山王は沖縄本島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。 しかしながら1416年に中山(首里城)の尚巴志によって滅ぼされ、中山が監守を今帰仁に設置して以降、監守の居城として今帰仁城を利用していました。 1609年には薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。 監守が住まなくなって以後は拝所となりましたが、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れているそうです。 そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、今帰仁城も世界遺産(文化遺産)に登録されました。 日本城郭協会「日本100名城」(90/100) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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