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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(沖縄編)
勝連半島の付け根部分、標高100mの独立した丘陵部にある勝連城は、うるまの市内からもその石垣がよく目立ちます。
勝連城の全景 勝連城は三の曲輪から一の曲輪まで備えた連郭式で、それぞれの曲輪が城壁と石垣で囲まれています。 西原御門の石垣 三の曲輪へ続く石階段 右側に城壁を見ながら横矢が掛かっており、本土の城郭と同じく防御設備が見られます。 三の曲輪の城壁 この城壁を右に見る格好となり、単なる交易拠点ではなさそうな感じでした。 三の曲輪の城門 おそらく櫓門が建っていたと思われますが、本土でこのクラスの石垣門を見るためには、勝連城の築城から100年以上は待たなければならないことでしょう。 三の曲輪から見た二の曲輪の基壇 野面積みと布積み(切込み接ぎ)が見られますが、途中で改修されたのかも知れません。 二の曲輪には建物の礎石跡があり、舎殿が置かれていたようです。 二の曲輪の全景 二の曲輪と一の曲輪の間には、「ウミチムン(火の神)」が祀られ、「ウシヌジガマ」の洞口がありました。 「ウミチムン(火の神)」(左)と「ウシヌジガマ」(右) 「ウミチムン」は「三個のかまど」の意味があり、琉球古来の信仰である火の神を祀っています。 ここからは久高島などの聖地を遙かに拝む場所であったとされています。 さらに沖縄でよく見かける洞窟が「ガマ」で、「ウシヌジ」とは「身を隠す」の意味があります。 勝連城が落城した時、城主の阿麻和利は「ウシヌジガマ」を抜けて読谷へ逃げ延びたの言われています。 太平洋戦争の沖縄戦でも、ひめゆり学徒隊が避難していた場所も、やはりガマでした。 琉球の城(グスク)に関して言えば、そもそもの築城目的が戦闘拠点ではなかったと思っています。 信仰の拝所である「御嶽(ミタキ)」があり、何よりも交易は海からやって来ます。 その海を一望できる場所こそ、グスクならではの築城場所でしょうか。 中城湾の方向 平安座島の方向 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/08 12:45:57 PM
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