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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(福岡編)
「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」と、日本書紀に登場するのが水城(みずき)です。
水城の遠景 水城は土塁と濠で造られた古代城郭で、土塁は長さ約1.2km、高さ約10m、最大幅が約80mありました。 土塁跡(断面) 東西に延びる土塁の北側には、かつて幅約60m、深さ約4mの外濠が巡らされていたそうです。 博多湾側(北側)の土塁と外濠跡 反対側の太宰府側(南側)には、土塁の下を通って水濠に給水する「木樋」も発見されました。 土塁の東西にはそれぞれ門が設けられ、西門のあった場所からは、大宰府(政庁)と鴻臚館(迎賓館)を結ぶ官道の跡も発見されました。 西門跡 水城は古代城郭でありながら、築城年、築城目的とも明らかになっています。 663年の白村江の戦いで倭国が唐・新羅の連合軍に敗戦すると、唐・新羅連合軍の侵攻に備えるため、九州や瀬戸内海の沿岸各地に朝鮮式山城などの防御設備が造られました。 そしてその防衛のために配備されたのが、防人です。 白村江の戦いの翌年の664年、大宰府の防衛のために築かれたのが水城で、翌年の665年には、同じく日本書紀に登場する大野城が築城されています。 水城から見ると、その大野城のある四王寺山が間近に見渡せます。 白村江の戦いでの敗戦と、それに続く唐・新羅連合軍侵攻の脅威は、国家としての「日本」が独立を危ぶまれる最初の危機だったと思います。 友好政策によって危機を脱し、その後の日本は中央集権体制を強めていきましたが、この1200年後にも同じような出来事はなかったでしょうか。 すなわち黒船の来航から、明治維新への歴史がまさに同じ歴史だと思います。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/26 01:33:33 AM
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