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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(鳥取・島根編)
鳥取城二の丸へのルートは2通りあって、1つは大手口の中ノ門から表御門を通るルートで、もう1つは北ノ御門から中仕切門を通るルートです。
大手口の表御門(鉄御門) 一方の北ノ門からのルートでは、中仕切門の城門がありました。 中仕切門 鳥取城で唯一の現存建造物でしたが、1975年(昭和50年)の強風で倒壊してしまい、その後で復元されたものです。 中仕切門(城内から見たところ) 近世城郭ではよく見かける高麗門形式です。 中仕切門を抜けると、目の前に二の丸の石垣が現れました。 二の丸石垣 隅櫓が建っていたようで、その櫓台かと思います。 二の丸石垣 こちらも一見すると櫓台のようですが、この石垣の向こう側は石段となっており、裏御門へと続いています。 裏御門跡 裏御門の右側には、御三階櫓の櫓台がありました。 御三階櫓の櫓台石垣 御三階櫓の石垣については、築城主池田長吉の子、池田長幸の夫人の侍女であるお左近のエピソードがあります。 お左近は麗しい化粧で華やかに装い、毎日高台に上って工事を指揮したため、人々はその姿に労苦を忘れて励まされたそうです。 お佐近の手水鉢を石垣に積んだところ、難工事だった三階櫓の石垣が無事完成したと伝わっています。 お左近の手水鉢は1963年(昭和38年)の石垣整備で発見され、その後の石垣の修理の時に元の位置に戻されました。 とかく築城時のエピソードでは、何かと悲壮感あふれる話が多い中、何だか心温まる話だと思います。 裏御門から二の丸に入ると、すぐ横に御三階櫓の跡がありました。 御三階櫓櫓台(城内から見たところ) 御三階櫓の脇には、1965年(昭和40年)の石垣修復工事で発見された銘文入りの天端隅石が置かれていました。 1728年(享保13年)の御三階櫓再建時のもので、「吉田」の文字は遠目にもわかりました。 銘文はこう書かれているようです。 「享保十三年戌申九月二日 吉田氏甚四郎尉久政 下奉行 山阿梶エ門 今嶋伝兵衛 伴 新兵衛 因州鳥取住棟梁 永見右衛門尉」 鳥取城の二の丸は、実質的に本丸の役割を果たしていたようで、江戸時代の前期までは藩主の御殿が建てられていたようです。 (江戸時代中期に御殿は三の丸に移されました) また、二の丸には御三階櫓以外にも隅櫓が建っていたようで、櫓の跡が残っていました。 菱櫓櫓台 菱櫓跡 櫓台石垣の平面が菱型で、櫓そのものも菱型であったため、この名前が付いています。 二の丸から大手登城道を隔てた反対側にあるのが天球丸の曲輪です。 天球丸は元々あった曲輪の上に、さらに石垣を積んで曲輪が造られたため、二の丸よりも高い位置にあり、曲輪も二段になっています。 下段の曲輪から見た天球丸上段石垣と巻石垣 天球丸の曲輪に登ると、巻石垣を上から見ることができました。 巻石垣が城郭で利用されるのは鳥取城以外に例がなく、これだけでも見に来る価値はあると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/02/28 05:32:00 PM
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