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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
高遠城の築城時期はよくわかっていませんが、南北朝時代に諏訪氏からわかれた高遠氏の拠点であったとされています。
戦国時代には甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻し、伊那谷攻略のために高遠城を奪取しました。 武田信玄の四男である諏訪勝頼(のちの武田勝頼)が高遠城主となり、勝頼が甲府に戻って武田氏の当主になると、武田信玄の五男である仁科盛信が城主となりました。 江戸時代に入って高遠藩が置かれると、旧武田氏の家臣である保科正光が初代藩主となりました。 そして第2代高遠藩主となったのが、保科正光の養子、保科正之です。 保科正之は徳川第2代将軍徳川秀忠の隠し子だったのですが、正妻である江姫の嫉妬を恐れたため、保科正之は高遠藩に預けられたというエピソードがあります。 保科正之は後に会津藩主となり、猪苗代湖畔の土津神社に墓所がありますが、土津神社を訪れた時、境内に高遠町から送られた桜の木が植えられていたのを覚えています。 高遠町歴史博物館には、こんな幟が立っていました。 保科氏の後、高遠藩主は鳥居氏、内藤氏と変わっていますが、内藤氏の時代に高遠藩に預けられた人物がもう1人いました。 「絵島事件」の絵島がその人で、内藤氏が藩主の時に高遠藩預けとなっています。 絵島の幽閉されていた部屋が「絵島囲い屋敷」として、高遠町歴史博物館の中に保存、展示されています。 高遠町歴史博物館 時間が早すぎて、まだ開園していませんでした。 実は10年位前にも高遠城を訪れたことがあって、その時は絵島囲い屋敷を見学したのですが、牢屋のような狭い部屋だったのを覚えています。 ところで江戸城の鬼門(北東)にある平川門の横には、「不浄門」と呼ばれる門があります。 江戸城内で死者が出た時は、「不浄門」から城外へ出されるのですが、生きてこの門から外へ出されたのは、浅野内匠頭と絵島だけです。 江戸城不浄門(2008年10月) 画像の左側が城内で右側が城外なのですが、この門だけ内と外の向きが逆になっています。 話を高遠城に戻すと、内藤氏第7代藩主内藤頼寧は名君として名高く、藩政改革で産業を発展させたり、軍事の西洋化を進めたりしていました。 その子で第8代藩主の内藤頼直は内藤頼寧の意志を受け継ぎ、「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先なるはなし」と、藩校の「進徳館」を創設しました。 かつて三の丸のあった場所には、進徳館の建物が一部現存しています。 進徳館表門(現存) 創設されたのは幕末の1860年です。 玄関と前通り東棟と西棟(現存) 進徳館では和学・漢学だけでなく、洋学も教えていたそうです。 また兵学や武術など、優秀な教員を招聘して、進歩的な教育が行われていました。 進徳館からは後に長野県の教育界を担う多くの人材を輩出しており、長野県が「教育県」と呼ばれる一端かも知れません。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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