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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
諏訪盆地の東側は、南北に延びる主稜線から東西に支稜線がいくつか延びており、上原城から北へ約3kmの別の支稜線上にあるのが桑原城です。
桑原城へのアプローチは2通りあり、北側の普門寺口からだと途中まで林道が続いています。 未舗装の砂利道となっており、SUVなら行けるかも知れませんが、私は林道の入口から歩いて登りました。 林道が終わると本格的な山道となり、誰もいない山道でクマ除けの鈴を鳴らしながら歩いていると、上から人が下りてきたのでビックリしました。 普門寺口の登城道は桑原城の搦手に続いており、稜線上に取りつくと堀切が現れました。 看板は「空濠」となっていましたが、稜線上の堀切だと思います。 桑原城は上原城の支城としての位置付けですが、搦手の防御が堅固だった上原城に比べ、桑原城の方はさほどでもないように思います。 樹林帯を抜けると「東曲輪」と呼ばれる削平地に出ました。 東曲輪 虎口と思われる場所にいくつか石が埋められていますが、門の礎石とも思えず、意味はよくわかりませんでした。 東曲輪には墳丘のような盛り土があり、「首塚」と書かれています。 諏訪頼重が武田晴信(信玄)軍を相手に籠城戦を繰り広げた城で、「首塚」の意味するところは想像に難くありません。 桑原城の縄張はとてもシンプルで、東曲輪の他には二の丸と本丸が連郭で配されているだけです。 本丸 本丸から見た二の丸 本丸と二の丸の間は大きな空堀で仕切られているものの、防御設備として他に目につくものはありませんでした。 二の丸と本丸の間の空堀 二の丸から見た本丸 二の丸に立つと、木々の間に諏訪湖を望むことができました。 諏訪頼重もここから諏訪湖を眺めたかも知れませんが、諏訪氏の最期に何を思ったのでしょうか。 松尾芭蕉翁が奥州平泉の衣川館跡で詠んだ句を拝借するならば、 「夏草や つはものどもが 夢の跡」 桑原城の籠城戦については、「武田信玄の諏訪攻めと桑原城」と題して、現地の解説板に詳しく書かれています。 諏訪頼重の最期と諏訪氏の滅亡は、武田信玄の謀殺だったということでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/08/15 06:09:49 AM
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