|
テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
日本には五稜郭が2つあって、1つは有名な函館の五稜郭、そしてもう1つが長野県佐久市にある龍岡城の五稜郭です。
五稜郭公園から五稜郭の方へ歩いて行くと、民家や畑の中にいきなり稜堡が現れました。 北西側稜堡 周囲の水堀は埋められて道路となっているため、稜堡や石垣を間近に見ることができました。 石垣は最も進化した切込み接ぎの布積みで、石垣上部に武者返しの「刎ね出し」を備えています。 函館の五稜郭のように完全な形で残ってはいませんが、大手口のある北東側を含め、東側の周囲には水堀が残っていました。 現地の縄張図(大手口のある北東が地図の下になります) 大手口と大手橋 大手口付近の水堀 龍岡城の本丸跡は田口小学校の敷地となっており、かつての虎口の跡が小学校への出入口に使われています。 北西側の黒門跡 かつては非常用の出入口として使われていたようです。 本丸跡 小学校の敷地に建つ和風の建物が御台所櫓で、現存する建築物です。 城郭の外側は水堀と石垣で囲まれていますが、内側には土塁が築かれていました。 南東側の水堀 幾何学的な線形が美しいと思います。 南東側の土塁(城内から見たところ) 北東側の稜堡(城外から見たところ) 函館の五稜郭に比べて規模も小さいため、稜堡を間近に見ることができます。 北東側の稜堡(城内から見たところ) 画像ではわかりづらいですが、函館の五稜郭を彷彿とさせる造りとなっていました。 龍岡城は三河国奥殿藩の藩主、松平乗謨(のりかた)によって築造され、1867年に完成しました。 函館五稜郭の竣工が1864年なので、龍岡城の五稜郭の方が新しいことになります。 三河の殿様が信濃に築城することには違和感がありますが、三河奥殿藩の松平氏は本拠地の三州奥殿と信州佐久にそれぞれ封地を持っていました。 しかも三州奥殿が4,000石に対し、信州佐久は1万2,000石と、石高では信州の方が上回ります。 信州佐久には陣屋を置いていましたが、居館を三河から信濃に移すことに決め、幕府からも許可を取り付けました。 松平乗謨は、幕府では陸軍奉行や陸軍総裁を務めており、西洋軍学にも通じていたため、居館を西洋式の城郭にして、完成したのが龍岡城五稜郭です。 せっかく完成した龍岡城でしたが、完成からわずか5年後の1872年、廃藩置県によって解体され、廃城となっています。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[城跡と史跡(山梨・長野編)] カテゴリの最新記事
|