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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
龍岡城五稜郭のある長野県佐久市から「佐久甲州街道」(現在の国道141号線)を通って、山梨県に入ってきました。
武田信玄が甲斐の国に城を築かなかったためか、近隣都県に比べて山梨県には戦国城郭が少ないように思います。 武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎館(甲府市)は中世武士の居館といったところで、とても戦国城郭と呼べるようなものではありません。 また、躑躅ヶ崎から本拠地を移して築城した新府城(韮崎市)は、長篠設楽原の戦いでの敗戦後、武田勝頼の時代に築かれた城ですし、同じ甲府市にある甲府城にいたっては、武田氏の滅亡後に造られた近世城郭です。 そんな山梨県にあって、信濃との国境近くには戦国城郭がいくつか見られ、北杜市須玉町にある若神子城もその1つです。 現在の城跡は「須玉町ふるさと公園」となっており、公園入口のある北側が搦手になるようです。 搦手口 搦手口の脇には横矢のようなものがありましたが、判然としませんでした。 搦手の備え 城郭の遺構らしきものは残っていないのでよくわかりませんが、公園の区画が曲輪の跡かも知れません。 位置関係からすると本丸跡でしょうか。 本丸の先には植木で囲まれた一角があり、発掘された薬研堀の跡だそうです。 薬研堀跡 深さは1.2mあったようですが、ほとんど埋まってしまっていました。 また、畝堀が見られることから、なぜか北条流の築城術です。 薬研堀の先は煉瓦敷の広場になっていて、こちらも曲輪の跡かも知れません。 煉瓦広場の先には物見櫓のような建物があり、案内板を読むと烽火台とのことでした。 武田信玄は信濃方面との連絡や情報収集に烽火を使い、情報は甲府に集められていたそうです。 さすが烽火台のある場所は見晴らしもよく、煉瓦敷の広場から眺めると、「ニセ八ヶ岳」の異名を持つ茅ヶ岳が見通せました。 眼下にはかつて武田信玄も行き来したと思われる、佐久甲州街道(国道141号線)が通っています。 煉瓦敷広場の先は森林になっていて、足を進めてみると、大手口に堀切と思われる跡が残っていました。 堀切跡 「羹に懲りて膾を吹く」とはこのことですが、誰もいない公園でクマ除けの鈴を鳴らしながら歩いていました。 若神子城の山腹には「甲斐源氏発祥の地 須玉町」と書かれた大きな看板が掲げられています。 そんな由緒ある史跡なのですが、他に誰も人はおらず、また人が来ている形跡もあまりありませんでした。 若神子城は新羅三郎義光が築城したと伝えられ、これが「甲斐源氏発祥」の根拠になっているようです。 ふるさと公園のある「古城」を中心に、「北城」・「南城」の三城から成っており、この総称が若神子城です。 武田信玄の時代は、信濃侵攻の重要拠点として機能していたようですが、武田氏滅亡後は小田原北条氏の拠点となっていました。 1582年には信濃から甲斐へ攻め込んだ北条氏直が本陣を置き、三河から進軍して新府城に本陣を置く徳川家康と対峙しました。 この時は旧武田氏の家臣を巧みに利用した徳川家康の勝利となりましたが、後に両者は和睦して同盟を結んでいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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