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『面前の田地は、放ち得て寛きを要し、
人をして不平の嘆きなからしむ。 身後の恵沢は、流し得て長きを要し、 人をして不きの思いあらしむ。』 (現世に処する心構えとして、何人にも公平にし、 不平不満を嘆く人のないようにしたい。 死後に残る恩恵については、長く後世に残して 人に乏しい思いをさせない。 いい換えれば豊かな思いをさせるようにしたい。) よくいわれる文句に「籠に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」。 人が変わり、仕事は変わるけれども、この一つが欠けても 仕事にはならない。 人は皆同じ、職業に変わりはない、人は皆同格という意味である。 ところが実際は、肩書や職業によって差別し、貧富によって 見る目を異にし、態度、服装によってまで差をつけたがる。 昔は士農工商などといって差別したし、男女の差別も著しいものがあった。 私が銀行に入ったのは大正12年の4月で、関東大震災の半年前であった。 当時、背広を着ていたのは役人と銀行屋ぐらいであった。 おカネを取り扱っていた銀行屋などは、人々からおカネぐらい 値打ちがあると見られていたらしい。 ある銀行マンが、「葬式後の食事の時、坊さんの次に僕が座った」 と自慢していたほどである。 こうした銀行屋の考えは、太平洋戦争後にさらにエスカレートし、 慇懃無礼の代名詞として陰口の種になっている。 そうした中で私は昭和24年5月に本部の課長になったが、 周囲から、年が一番若い、学歴なしの課長は初めて、などと言われて、 それまで抱いていた劣等感はどこへやら、優越感が高まってくる。 ある時、秘書室長だった島田竜郎という先輩に 「私の長所はなんでしょう」と聞いたところ、 「それが君の最大の欠点だ」と一喝され目が醒めた。 さて、芽生えたうぬぼれ根性をどう斬り捨てるか。 そうした時、思いついたのが、うぬぼれたくてもうぬぼれることの できない人たちとの交際ということだったのである。 その手始めは、上野公園の、モク拾い(タバコの吸いがら拾い)、 次いで、バタヤ、流し、石焼き芋屋、仲居、ホステス、競馬の予想屋、 虫売り、サンドイッチマン、花売り娘から2人の乞食など 40人近くにもなろうか。 それを38歳から60歳の専務で終えるまで続け、その間、 NHKテレビの「交際術」という番組に、こうした街の友人2人と共に 出たこともある。 また、取締役になった50歳の時、徳間書店から『やかん談義』 という本を出版したこともあった。 自分のヤカン頭と夜間をかけた書名である。 これは街の人たちとの対談を中心に書いたものだが、 実は他に目的があった。 その第一は、銀行屋は、自分たちはエリート人種と思っているが 周囲からは慇懃無礼人種と思われているので、 中にはこういう銀行屋もいるのだという気持ちを知ってもらいたい と考えたからであった。 その二は、自分に芽生えてきたエリート意識を根絶したい という願いである。 その三は、当時から私は銀行は大衆化すべし、 今言われているように中小企業、一般大衆を取引先とすべし という主張を強調してきたが、そうするためには、 エリート意識を持たない人々と同じ心になる必要があると 思ったからである。 その四は、街で働く人々は苦労は体験ずみ、世間をよく知り、 甘い辛いも知り尽くしずみの人だからである。 仕事も、儲けるための商売ではなく、生き抜くための商売、 真剣さが違う。 私が対談中「商売の秘訣は」と聞いて即答できなかったのは、 老女の乞食一人だけであった。 今でも、時間を見ては道端の小さな畑に出る。 通りがかりの人が目礼しても近所の中学生が言葉をかけてきても、 こちらは帽子を取って礼をすることにしている。 家族のものたちから、わざわざハゲ頭を見せることもなかろうに、 と言われる。 しかし、自然に手が帽子を取ってしまうのであるから いかんともなし難い。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.08.16 06:31:49
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