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『彼富ならば我は仁、彼爵ならば我は義。
君丁もとより君相(くんしょう)の牢籠(ろうろう)する ところとならず。 人定まれば天に勝ち、志一(いつ)なれば気を動かす。 君子もまた造物の陶鋳(とうちゅう)を受けず。』 (彼が富でくるなら我は仁徳をもって対抗、 彼が爵位でくるなら我は道義をもって対抗す。 そこで仁義道徳をもって立つ君子は、 富貴によって立つ君主や宰相などの言うままになることはない。 人は一念を通せば天にも勝つし、運命を開くこともできる。 志が専一であれば気を率い動かすことができる。 君子たる者は君主や宰相はもちろん造物者によっても、 型にはめられ意思の自由を束縛されることはない。) 中国の故事に「一念岩をも通す」というのがある。 前漢の李広は強弓の名人として知られ、 誰にもおくれをとることはなかった。 ある時、草原の岩を虎と思い込んで射たところ、 矢鏃(やじり)がかくれるほど石に深く突きささった。 その後で再び射たが、今度は突きささらなかったという。 石と知っては弓を引く力もにぶるからである。 この故事の教えるところは「集中の力」ということもある。 『孫子』の兵法に、 「激水の疾(はや)くして石を漂わすに至るは勢(せい)なり。 鷙鳥の撃ちて毀折に至るは節なり」とある。 すなわち、せき止められた水が激しい流れとなって 大きな岩を押し流してしまうのは、流れに勢いがあるからだ。 猛禽が獲物を一撃のもとに打ち砕いてしまうのは瞬発力があるからだ。 何事に対しても、あれもこれもと力を分散しては、 成ることも成らなくなる。 志を一点に集中して当たることが成功の近道である、 と考えるべきである。 知人に「地下足袋社長」といわれていた社長がいた。 学校にも行けず、読み書きさえ不自由。 服装はいつも詰襟服に地下足袋。 もとの仕事は屑物集め、いまでいうバタ屋。 その人が戦後、溶接棒製造に挑戦し、公の規格に合格すべく 研究を始めた。 参考書が読めるわけでなし、経験があるでなし。 ようやく国立大学の先生を訪ね薬剤配分などの教えを受けた。 先生にメモ書きしてもらい、奥さんがそれを読み 社長が配分する仕事であったが、公式規格には、 大手メーカーに次ぎ全国二番目に合格している。 それを生産するための設備資金として20万円の借金を申し込まれ、 私がその稟議書を書いたが、それが銀行屋として初めての 貸出稟議書となった。 その時、 「私の当面の目標は年に法人税と借金利息を一千万円ずつ 納めることです」 といっていたが、何年か後には、その額に○を一つ重ねるほどに なっている。 まさに一念岩をも通したといえるだろう。 “根性”とは 「一つの目的を達成するために全知全能を傾注し続ける気力である」 とは自分の借金返しの体験から出た文句だが、 目的達成の執念さえあれば、李広ならずとも石に矢を通すことが できるのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.08.21 09:14:56
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