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『日すでに募れて、しかもなお姻霞絢爛たり。
歳まさに晩れんとして、しかもさらに燈橘芳馨たり。 ゆえに末路晩年は、君子さらによろしく精神百倍すべし。』 (日が暮れても夕映えは美しく輝き、年の瀬が近づいても ダイダイやミカンは、さらに芳香を放っている。 このように、晩年になっても精神を百倍にも奮いたたせるべきだ。) 私はまだ93歳(2003年)で老いを語る資格はないが、 よく長寿の秘訣を聞かれるので答えの用意だけはしているのである。 私の秘訣はたった一字“予”である。 予定の予、予備の予で、「あらかじめ」とも読む。 何事かの目的を定めてその目的を達成するための準備である。 準備するためには、頭も使えば手足も使い、 結果を希んで楽しみも得られ、生きがいも得られる。 こうしたことの日常生活が心身の健康を保たせてくれる、 と自分なりに考えているわけで、格別の長寿技術を施したわけではない。 そうしたことで長寿の方法を聞かれても答えようがなく、 “予”の一字で言い逃れているといえるのである。 『中庸』という本に 「事は予めすればすなわち立ち、予めせざればすなわち廃す」 とある。 事はあらかじめ準備すれば成功するし、しないと失敗する という意味である。 この本を読んだのは30歳の時だったが私の準備は20歳前からで、 借金返済が遅れ、内容証明郵便で驚かされて 返金準備の必要を知ってからのことである。 生涯信条を借金から得たということで、恥じ入った話だが、 これが事実なのである。 私の家の物置きには、20キロ入り肥料が、常に十数袋置いてある。 「何に使うんですか」と聞かれ 「このまま食べるわけじゃないんです」と答えた。 私の書棚を見た人が、「誰が読んだ本ですか」と聞く。 中国の史書古典が並べてある。 これも私の準備品である。 篤農家(?)としての準備も忙しい。 春は除草に種まき、夏は灌水から除虫、果物の袋かけ、秋は収穫、 冬は果樹の枝の剪定など、野菜と果物が私に強制労働を命じる。 これが健康を助ける。 年をとると動くことも億劫になってくるが、彼らの命じる 強制労働に対しては立ち上がらざるを得なくなる。 いわゆる経済人に「創造とは」と尋ねたら、 「それは準備である」と答えてくれた。 目的を定めて達成しようとしている時、何かのヒラメキをおぼえる、と。 なるほど、経営戦略・戦術にしても、画期的な目的を抱いて 思考を重ねている時、ふと頭に浮かんでくるものがある。 それが案外目的にかなっていることも少なくない。 別項でも述べたが、私はよく、疲れをとるため、また気分転換のため、 最近では声を張り上げて吟詠、演歌から昔の軍歌など、 思いつくまま歌い出す。 とうとうボケが始まり、頭にきてしまったと人は思うかもしれないが、 自分としては頭にこないための準備なのである。 白頭を怨む詩も悲恋の演歌も、私にとってはすべて長寿の妙薬。 心の持ちようで長命にもなれば短命にもなる。 自分の心に責任をもたせ、別の自分の心を気楽にしておくことも 長寿につながるのではないか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.08.23 06:06:44
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