退却は大将が決める
■信玄も常に退路を考えていた - 渡部武田信玄は小田原城を攻める時、家来たちに「攻める道筋を考えなさい」と言って、自分は自分で地図に線を引いていた。家来たちがあとで「この道筋で攻めるのですか?」と言ったら、信玄はこう答えたといいます。「いや、攻めるのはお前たちが考えたらいい。わしは逃げる時の道を考えていたのだ」と。実際、小田原城を攻めたけれども落ちない。だから引き上げた。すると相手は、信玄が退却を準備していたとは思わないから追いかけてきた。それを迎え撃って、逆にコテンパンにやっつけています。■退却は大将が決める - 大島退却はやはり大将が決めることだと思います。退却やワースト・ケースを想定しない戦さは暴虎馮河です。私は、そういうのは嫌いです。私はどんな目標を立てる時でも、果たしてそれが達成できるかどうか、常に恐怖心を抱いています。怖いから、これが駄目だったらこう、あれが上手くいかなかったらどうと、実行計画は何重にも安全弁を設けて慎重に練り上げます。徹底的なシュミレーションを重ねるわけです。これまで我々の計画がある意味ですべて実現できたのも、この恐怖心のおかげではないかと思います。1999年の商工ローン・バッシングの時もそうでした。私の会社や「日栄」が狙い撃ちされ、それを10月末に、テレビ朝日系の「サンデープロジェクト」で田原総一朗さんが大々的に取り上げた。放送は日曜日です。その朝、番組のことを知って、これは危いなと直感しました。これに、どう対処するか。私はただちに撤退を考えました。番組を見たその日の晩には「退却戦」を決意しました。いずれにしろ相当のダメージを受けることになる。グズグズしていたら手遅れになる。早く店舗を整理しなければいけないと考えたのです。営業成績は落ちるに決まっているのだから、ここは身軽になって、何とか凌がなくてはいけないと。それがトップの判断です。私はその時点で「全治3年」と判断しましたから、マスコミで激しい商工ローン・バッシングが続く間、テレビも見ないし、新聞も読まないで挽回のチャンスだけを窺っていました。翌2000年から2003年までは本当に長い「冬眠の4年間」でした。岩窟王のモンテ・クリスト伯の心境でしたが、ただしその時も、我々は寝ていたわけではありません。前にもお話ししましたように、マルマンを買収し、あるいはT-ZONEを傘下に入れ、どんどん企業再建をしてきた。いわゆる事業再生ファンドがやっているようなことを、我々は先駆者としてやった。そして企業を再生させてどんどん上場していく。今後もこれはやっていくつもりです。最近、カリスマ主婦として一大ブランドを築き上げたマーサ・スチュアートさんが、インサイダー取引をしたということで摘発され、6ヶ月間刑務所に行くことになりました。その時、彼女は「私の人生の中で6ヶ月間なんて夢のまた夢のような期間にすぎません。すぐに私は元気一杯で刑務所から帰ってきます」と話したそうです。いわれなきバッシングで苦しめられた身としては、マーサ・スチュアートさんのこの言葉に共感を覚えますね。■不動産では皆、致命傷を負った - 渡部バブル崩壊の時、不動産では皆、致命傷を負いました。あの頃の住宅ローンの会社、いわゆる「住専」は皆、潰れました。住専を最初にはじめた庭山慶一郎さん、私はあの人の言っていたことで、なるほどこれは筋が通っているなと思ったことがあります。当時、銀行はなかなか住宅ローンを貸さないから、住専が銀行からお金を借りて貸し出していました。それを見ていて、これは儲かりそうだと思った銀行は自分たちもやり始めると言い出した。そこで庭山さんは「それはないだろう」と怒ったわけです。大銀行はやることが汚いといって、庭山さんが怒るのも、もっともな話だと私は思いました。ところが、そのうち総量規制が敷かれて、住専は皆参ってしまった。考えてみると、住専各社の破綻は可哀そうな話なのです。『異端の成功者が伝える億万長者(ビリオネア)の教科書』(渡部昇一氏・大島健伸氏共著)より