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いざ国ひとつ南北朝!と年代暗記を 予備校で教えていた。 ただそれにはもっと話がある。 天皇家は2つの王朝に分かれていた。 南朝天皇家(大覚寺統)と、 北朝天皇家である(持明院統)である。 つまり同時に二人の天皇がいたのである。 その講和は大覚寺で行われた。 そこで南朝の第99代後亀山天皇が持っている 三種の神器を 北朝の後小松天皇に渡したのである。 約定では今後は南朝と北朝。 交代で天皇になる約束であったが、 北朝はこれを裏切った。 これが現在の天皇家の祖先である。 南朝方はこの卑怯な裏切りに我慢できず、 吉野で挙兵した。 勝とか負けるではない、 約束を反故にすることは日本人として 許しまじ行為と判断したからである。 かくして後南朝は結成された。 北畠一族、楠木一族も参集した。 表舞台での最後の戦いは、 応仁の乱であった。 抗戦派の長慶天皇系ではなく (地下に潜っていた)。 和平派の後亀山天皇系の 小倉宮が京都西陣に立てられた。 山名宗全軍本陣である。 山名氏ももとは南朝方・新田一族である。 戦いは収拾がつかず、 敵方大将・管領細川勝元と 西軍大将・山名宗全の死亡により、 収束へと向かい10年間で終わった。 結果、京都は荒廃し、 実力だけが頼りという <下剋上>、つまり戦国時代が始まった。
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2024/10/05 06:05:03 AM
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