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「オーストラリアで日本語教師をするんですか。」
副社長はそう言われて、5秒ほど何も言われなかった。9年ほど勤めた建設機械メーカーを退職時に、その挨拶に伺ったときのことだった。副社長は、インドのビジネスに精通されており、私がインド担当だったこともあり若造ではあったがお話する機会もあった。 「副社長が言うんだよね、俺があんまり苛めたからタコ君が病める様なハメになったんじゃないかってね。」 建設機械第三部の阿川部長が回りに聞こえるほど大きな声で私にそういった。 「そんなことないよね、タコ君!」 1984年の5月から、脱サラ日本語教師を目指して週末に日本語養成口座に通い始めた。誰も、私が会社を辞めるなどとは思っていなかっただろう。大きな組織でやっていくことに限界を感じていたし、人間関係でのトラブルなどもあり思い切って転職することになった。脱サラといえば格好はいいが、大きな挫折だった。世渡りが下手な性格なのかもしれない。どうせ辞めるなら、まったく別な世界に入ろうと日本語教師の勉強を始めた。 「じゃ、オニイさんね、これを餞別にしましょう。: 副社長は若い人をいつもオニイさんと呼んでいたようだ。引き出しからクロスのペンセットを取り出して差し出された。サラリーマン9年目、会社は先行投資をしている時期でこれから回収が始まろうという年代。そんな時に脱サラだった。まだ、日本はこれからバブル経済に突入しようという時代で、終身雇用が当たり前のときだった。会社は元が取れていない。 「じゃ、オニイさん、頑張ってくださいね。」 そういって、暖かくふっくらした手で握手してくださった。にっこり笑って人を切るといわれていた副社長、怖くて仕方のない存在だったが、しっかりとお辞儀をして退出した。 今、フィリピンのセブにいる。オーストラリアに行くことも、そして、こうしてセブにいることも、勝手に自分で決めて勝手に自分で来ている。勝手な人生が続いている。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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