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テーマ:旅のあれこれ(10252)
カテゴリ:忘れられない人々
「アメリカに着いたら手紙出すからね。今日は、最後の晩餐みたいだな。」
練馬区の春日町という所にあった「山口壮」の四畳半の部屋で、吉江と二人で渡米前夜の細やかな野菜炒めごはんの夕食の時を過ごした。アンバー色の電灯が暗く部屋を包んでいる。 「私も、パリから書くわね。」吉江はそう言って笑顔を作った。 大学の3年生の一学期の終わりを待たずに、私は3か月弱のアメリカ旅行に出た。初めての海外旅行だった。1974年の6月4日。その月の終わりには、吉江はパリのソルボンヌ大学のフランス語夏期講座に参加するために渡仏することになっていた。ほとんどの学友が海外に自然に出た。 警察官だった父は、母と一緒に自家用車のスバル360で私と吉江を羽田空港まで送ってくれた。吉江は黄色の半そでのジャケットとパンタロン、私は白地にグレーの縞模様の新調のジャケット姿。何だか、新婚旅行の予行演習のように見える。 吉江とは、1年の体育の時間で知り合った。社交ダンスだった。ふざけて踊っていて、「そこの二人!もっとまじめにやって。」と先生に叱られた。そんなことおともあって、なんだか知らない内に親しくなっていった。 喧嘩して仲直りして、また、喧嘩して、また仲直りする。そんな、2年半だった。本当に小さなことで言い争いする。ほとんどは、自分が悪かった。分かっていたが、認めないから傷口が広がる。それを繕うのも疲れる。そんな中でも将来を考え始めるほど彼女との恋にずんずんのめり込んでいった。 「タコ、飛行機が飛び立ったときな、吉江さんはデッキをずっとずっと走って行って見送っていたよ。」 帰国後、見送りにきていた同級生の藤村がそう私に教えてくれた。映えるような黄色のパンタロン姿で暗闇に走る彼女の姿が浮かんできた。 私は8月に帰国して、10月に帰国予定の彼女を待った。アメリカ滞在中に手紙は一回しかなかった。やがて、10月の帰国を12月に延期したことを手紙であっさりと言って寄越した。 「枯葉が山のように積もる道を泳ぐように毎日歩いています、、、、、、、」 パリでの彼女の生活、私は想像することさえできずに、しびれてしまった心をなだめるように一日一日彼女を待っていた。 小雨模様の12月12日。吉江と知り合って調度3回目の12月。彼女は羽田に戻ってきた。 「迎えに来なくていいって言ったでしょう!」 吉江は顔の表情ひとつ変えることなくそう言い捨てて、出迎えの父親とタクシーに乗って去って行ってしまった。羽田で見送ってくれた黄色のパンタロンは未だに目に焼き付いているのに、この時の彼女の服装はまったく覚えていない。出迎えのお父さんのトレンチコート姿と、彼女の一言だけが記憶にある。私は、金縛りにあったように身動きできずにいた。 40年前の振られた話、今滞在中のフィリピンのセブで汗かきながら上半身裸で書いている。自分のしつこさを褒めてやりたい心境になる。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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