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母は、私が物心ついたときからずっといろいろな内職をしていた。その姿を見て、私はすくすくと平均を大きく上回って育ってしまった。父は警察官だったが、自慢したいくらいの安月給で、母が内職をして働かないと大食いの私と兄を食わせられなかったのだろう。そんな苦労をよそに、弁当のおかずに文句を言ったりして、今本当に母と父に申し訳ないと思っている。因みに父は、あの震災の一月後に88歳で他界している。母は、私が大学生のときその内職を辞めて、近くのプラスチック成型会社に「パートのオバサン」として働きに出た。
この3年後に高血圧で倒れるまで、母はここで働いていた。当時、母は身長が154センチ、73キロという体格で、「肝っ玉かあさん」とか言われていたようだ。その後、何回か病気をしたので、今は55キロ位になっている。 「八ちゃんがね、オバサンとこの息子、すごく仕事するよって言ってたよ。一番だってさ。」 私は大学の1年生のとき母が働いてるこのプラスチック成型会社で夏休み中バイトをしていた。そこに、やや知恵遅れの17歳の八ちゃんという子が働いていて、その子が母にそういったという。 1972年、7月から8月にかけて約一ヶ月間半、生まれて初めて母と一緒の職場で仕事ができた。後にも先にもこれ一回だったが、今思うと私にとっては掛け替えのない毎日だった。私は、母の手前もあり一生懸命真面目に働いた。でも、昼は一緒に食べなかった。 そんなある日、8月16日のことだった。その年の6月8日に忽然と私の前から消えた、ジーンズの似合う早苗から電話があった。昨日の日付とかは忘れるのに、こんなことだけは鮮明に覚えている。この日、父は泊まりでいなく、兄は留守で母と二人だった。「電話だよ。」 母が夕食のときにかっかってきた電話を取り次いだ。 「私、早苗。」 私は一瞬、呼吸が止まるほど驚いた。6月13日の私の誕生日に、一生の思い出を作ろうといっていた早苗が、その5日前に忽然と姿を消した。僅か一ヶ月半の交際だったが、一つ年上で、その時婚約者もいて、それでいながらすべてから逃げていた彼女と知り合った。私は、結婚まで考えた最初の人だった。 「ごめんね、あんな形でいなくなって。」 「今、どこにいるの。」 「金沢の友達のところにいるわ。探さないでね。」 母は彼女のことをほとんど知らない。というよりも、誰も彼女のことは知らない。誰にも会わす機会さえなかった。そんな関係だった。食卓に母を一人にしているのが気になったが、私は早苗と電話を続けた。 「家出の翌日にお兄さんに会ったよ。早苗の机の中から僕の住所を見つけたらしい。」 「そう。」彼女は低くそう言ったっきり何も言わなかった。気まずい沈黙が続いた。 「元気でね。じゃ、切るわ。さようなら。探さないでね。」しばらくして彼女がそういった。 初めて、死ぬほど好きになった女性、早苗と私の最後の会話は「探さないでね。」という言葉で切れた。 食卓に戻り、母には電話のことをほとんど話さずに食事を終えた。母も、何も聞かなかった。翌日も会社で何もなかったように母と一緒に仕事をした。 19歳の夏休み、私は小さな心が切りもまれるような日々だったが、笑顔で毎日プラスチックの加工の仕事をして過ごした。母とは、それ以降も一切早苗の話をしたことはない。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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