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夜になって、お風呂も入って子供たちが寝た今の静かな時間、 久しぶりに日記を更新してみようと思います。 妹こっち共々仲良くしてくださってる皆さんはご存知の方もいますが、 去年の12月3日に予定よりも2ヶ月近く早く赤ちゃんが産まれました。 こっちの所やこちらの方にもお祝いのコメント本当に嬉しかったです。 どうもありがとう。 最初こちらで産むか高知の実家で産むか悩んだのですが、 生前父が実家で産んでほしい。と言っていたので実家で産む予定にしていました。 でも、切迫早産になりこちらの病院で帝王切開でお産となりました。 その頃、父に突然生まれてきたことを報告している時、 まさか父の体の具合がすごく悪くなっているなんて思っていませんでした。 赤ちゃんは1504グラムの未熟児だったので、私だけが先に退院しました。 それから2日位たって、母から電話があり、「実はお腹が大きかったから 言い辛かったけど・・・」と父がご飯が全然食べれなくなった話を聞きました。 父はずっと掛かっていた病院を退院して、家で療養していました。 後から母に聞いた話では全ての治療を終えて後はやる事はないので、 おうちで2人おいしいものを食べてすごしなさい。と先生から言われたそうです。 10年間手術や放射線、抗がん剤など色々辛い治療を耐えてきた父が この言葉を聞いたときどう思ったのか考えただけでもいたたまれない気持ちになります。 癌がどんどん転移して、足が動かなくなっていたので訪問看護の方に 家に来てもらっていたそうなのですが、その看護士の方が 娘さんに伝えた方がいいと思う。という一言で父と母は私たちに 電話をしてきたそうです。 それからすぐ父は隣町の病院に入院となりました。 この病院はずっと掛かっていた病院ではなくて、 言わば治療目的ではなく、父が最後をむかえるのに決めた場所でした。 父は長女が早く生まれてきたのは、自分に会いに来てくれたのかなぁ・・・ と、言っていました。その言葉を聞いた時は、まだ保育器ににいる娘を 写真ではなく、実物に会わせる事が出来るかな・・・と思っていました。 それからとうとう長女が1月の7日に退院出来ることになり、 私たち家族はいったん神戸に帰ってくる事になりました。 その時父は辛うじて言葉を発する事が出来たので、 ぶーに「ぶーバイバイ。今度はすー(娘の名)を連れて帰ってきてね。」 と、淋しそうに言いました。本人も多分これが最後と思っていたのか、 バイバイの響きが本当に淋しそうで今でもその声を忘れる事が出来ません。 私も正直退院しても1ヶ月は家にいないといけないだろうし、 父と会うのも最後で、長女を見せる事は出来ないだろうと感じていました。 ところが、すーの退院の日に先生に事情を話すと「大丈夫ですよ。」と高知に すーを連れて帰る事を承諾してくれました。 早速実家にいた妹こっちにこの事を話し、父の容態を聞くと、 さらに状態が悪くなって、薬でほとんど意識もないとのことでした。 私は新幹線の中で、父にすーを会わせたいというのは私のエゴかな。 父も意識がほとんど無いのにすーを連れて行くのは 母親としてどうなんだろう・・・と考えたりもしました。 父に見せる事が出来たという自己満足のためにすーにしんどい思いさせてるのかなと。 でも、その思いは父にすーを会わせて全部吹き飛びました。 父はすーの事を分かってくれたんです。 ほとんど話も出来ない父は顔全体の表情を使って すーの誕生を祝ってくれました。 この顔を見ることができて、本当にお父さん待っていてくれて ありがとう。と言いたいです。 それから8日後に父は亡くなりました。 父はすーは自分の生まれ変わりや。とよく母に言っていたそうですが、 生まれ変わりではないにしろ、父の命があったからこの世にすーも 生まれてきたわけで。ぶーやこっちのところの3兄弟にも父の 命が受け継がれているわけで。なんだか父が子供を通して見えるようになりました。 父が亡くなった悲しみはきっと癒える時はこないけど、 父がこの世にいたその証でもあるあなたの孫たち5人は今日も元気です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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