『天を回らし、戦局を逆転させる』という願いを込め、
人間魚雷『回天』が誕生したのは太平洋戦争末期のことでした。
隊員自ら敵艦に体当たりする特攻兵器、人間魚雷『回天』の基地は
今は記念館となって後世へ語り継がれています。
日本の敗戦色が濃くなる中、祖国を守りたい、愛する人を守りたいと
いう一心から究極の特攻兵器、人間魚雷が構想化されました。
すぐには正式兵器として採用されませんでした。
きっと隊員そのものが兵器となる人間魚雷を認める事を
躊躇していたんでしょう。
しかし、戦局はさらに悪化し、ついに「回天」は正式兵器として
採用されました。翌月には基地が開設され、多くの若者が集まり
厳しい訓練を繰り返しました。
そして、窮地にたつ祖国を守るため、愛するものを守るため、
ここから出撃していったのです。
回天搭乗員の多くは二十歳前後の若者で、平均年齢は21歳と
聞きました。
ガイドをしてくださった教育委員会の方が
これからまさに回天に搭乗前の若者が母にあてた手紙を
紹介してくださいました。
(聞き取りだったので遺書原文ではないですが)
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わたしの命はあと三時間になってしまいました。。
少し時間ができてしまうと、ふと考えてしまいました。
今、わたしの心は日本晴れです。
敵艦に向かうことはちっとも怖くありません。
でも。
わたしが死んでしまうと、きっとお母さんは
悲しみの涙を流すのでしょうね。
そんなことをふと、考えてしまうと
わたしも少し悲しくなってきました。
でもね、おかあさん。
考えてみてください。
わたしが、今、お国に命をさしだすことで
日本が救われるのです。
それは、おかあさんや、弟や妹の命を救うことになるのです。
もしも、おかあさんが死んでしまったら、
年老いたおとうさんはいったいどうすればよいのでしょう。
幼い弟や妹はいったいどうすればよいのでしょう。
だから、わたしはお国のために命をささげます。
今、わたしの心は日本晴れです。
敵艦に向かうことはちっとも怖くありません。
私が一番怖いのは、おかあさんの涙です。
私が死んでお母さんが悲しんで涙を流してしまうのかと思うと
それがいちばんこわいのです。
どうか、泣かないでください。
でも、無理ですね。
だって、おかあさんはとても優しい人だから。
おかあさん。
今まで本当にありがとうございました。
どうぞ、お体に気をつけて
いつまでもお元気でいてください。
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日本は戦争を放棄し、核兵器をもちません。
私たちの子供の頃にはそういう教育を受けてきました。
だから、戦時中の人も 気持ちのどこかで「死にたくない」とか
「生きていてほしい」という思いがあり、それを口にすることが
絶対にできない時代だったと思っていました。
回天記念館を訪問して、少し違うと感じたのは
若い隊員自らが命をさしだしても国のために犠牲になろうと
していたことです。
若い隊員たちが国を救いたい一心で人間魚雷を考え出し
自らが操縦を志願したということにとても違和感を覚えました。
授かった命は自分だけのものではなく、
生かされた命であり、今も守られているのだと
そういう教育がしっかりと根付くことを切に望みます。
基地から発射場までのトンネルです。
手前の二本はトロッコの痕でしょうか。人間魚雷回天はこのトンネルを通り、
潜水艦に積み込まれると操縦士とともに二度と帰らなかったのです。
トンネルを抜けました。『魚雷発射場跡』と記されています。
トンネルを抜けて右手。風が大変強いです。
トンネルを抜けて発射場まで少し距離があります。
さっきの出口が左手に小さく見えます。
この桟橋で多くの隊員が見送られて出撃してゆきました。
頭の中で竹内まりやの「返信」がエンドレスで流れております。
「出口のない海」封切り中、見損ねたのでDVD借りよう。