富士宮の焼きそばが食べたくなり静岡県に行ってきちゃいました。
富士宮に詳しい友人から教えてもらった「伊東」
16時なのに満席!次から次へとお客さんが入店!
目の前でジュージュー!この音たまないですね。
「いただきまーーーす!」(^^)
おおお、今まで食べていた焼きそばとは明らかに違う。歯ごたえのある?麺。
だし粉と絶妙です。
お好み焼きを追加!
しぐれ焼きを追加!トッピングはマヨネーズ。
この手作り生もつ炒めがうまいんですよー。
デカッ!いちごミルクを仲良く二人で食べ「ごちそうさまでした!」
こんなに沢山食べて合計2120円!!
安い!うまい!また食べたい!大満足!
ところでなぜ?富士宮市は焼きそばが多いのか調べてみました。
そもそもは、やきそば屋と言っても、お好み焼き屋のことであり、古くは洋食屋と呼ばれ、駄菓子屋の一角に鉄板を設け、お好み焼きを焼いていた店。
かつて、富士宮市は大正、昭和時代の初期、表富士登山口として登山客が多く、そのため旅館等が数多くあり、浅間大社を中心にまちなかが賑わっていた。
また、オーミケンシをはじめとした製糸業が発展していたことから、そこで働く若い女性や従業員なども多く、まちなかが交流の場としても賑わっていた。
お好み焼きは、そうしたまちなかの駄菓子屋の一角などで始められ、安価で、手頃な食べ物として子供や製糸業で働く女工さんたちに好まれ、ソース味が珍しかったことからお好み焼きを出す店は「洋食屋」と呼ばれ親しまれてきた。
戦後になり、中国に赴いていた人達が帰還し、中国で味わった忘れることのできない味の麺類を見様見真似で開発し、その一つがやきそばであった。戦後の食糧不足の時代でも、野菜があれば少量の小麦粉でできるやきそばは市民に手頃な食としてもてはやされ、洋食屋では、お好み焼きのほか、やきそば、焼きうどんなども始め、まちかどのいたるところに店が立ち並び、市民生活の中に根付いてきた。
戦後、富士宮市の商店街には山梨県の身延線沿いの人たちが、買出しに来て賑わっていた。彼らは、手ごろであるやきそばを好み、地元に持ち帰っていた。
そうした人たちや「洋食屋」のために、当時、冷蔵庫などがなかったことから、製麺会社はなるべく日持ちがする麺を思考し、極力水分を除くことができる蒸麺製法を考案した。
そして、その蒸し麺は、水分が少なく硬いことから、調理する際に、鉄板の上で水を加えたりキャベツの水分で柔らかくする焼き方が考案され、更に、肉かすやだし粉などを入れ、旨味などが工夫されてきた。こうして、製麺会社や洋食屋の思考錯誤の末、富士宮独特の腰があり、硬めのやきそばが出来あがり、市民生活に定着していくこととなった。
一方、全国的には、大手の食品メーカーが柔らかい茹で麺のやきそばを全国展開し、一般に普及していったが、富士宮では、既に固めのやきそばが市民に定着していたことから、やわらかいやきそばは、あまり市民に受け入れられなかった。こうした経緯により、現在まで富士宮地域においては独自のやきそばとして市民にこの上なく愛され、富士宮の食文化として築かれてきた。
この富士宮独特のやきそばは、余りにも日常的に市民の食文化として根付いてきたことから、やきそばは全国一律に同じものと解され、富士宮独特であることに気づかないでいた。あるいは気づいても、富士宮のやきそばはおいしいと思う程度の認識であったことから、その違いを殊更うんぬんする機会もなかったのが実情であった。