【八重の桜】第31回感想と視聴率「離縁のわけ」
第31回の視聴率は、前回の12.6%より上がって、15.4%でした♪裏に、フジの『27時間テレビ』のクライマックスがありましたが、上がって良かったです♪ 籠城戦は4回かけてやりましたが、降伏してから展開が早く、もう明治4年です(汗)簡単に、時系列的に整理します。明治元年、籠城戦降伏。2年、八重達、米沢藩へ。3年、会津藩士と家族、斗南藩移住。覚馬が釈放。4年、京の覚馬の元へ八重達が行き、うらは離縁して会津へ。廃藩置県。 予告編に少し登場しましたが、次回は、山川浩(玉山鉄二)の末の妹・捨松(水原希子)が登場♪捨松さんは、籠城戦の時、数えで8歳だったとの事ですが、もう大人になるのでしょうか?(汗)それとも、また子供なのに大人がやるのかな?(汗) 山川大蔵(玉山鉄二)は、斗南藩の主導者となり、「浩」と名前を変えました。現代風の名前ですね。斗南藩の実情、大変そうでした(汗)明治3年、会津藩士とその家族約17,000人が斗南藩に移住しました。斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかりで、実質石高は7,000石足らずしかありませんでした(汗)寒くて、痩せた土地で、作物もうまく育たず、食べ物さえ苦労して、病死や餓死が相次いだようです。ユキも斗南に行っていたようです。雪の中、行き倒れてしまいましたが、新選組の斉藤が助けてくれました。斉藤は、時尾とその家族と一緒に暮らしていました。いつの間にか、時尾と斉藤が一緒だったので驚きました(汗)こっちに来る船の中で一緒になって、それからいろいろ面倒見て貰っていると、時尾は言いました。ユキは、会津が恨まれるのは新選組がやりすぎたからだと思っていて、責めました。でも時尾は、新選組は悪くない。一緒に命がけで戦ってくれたと憤慨。寝ていた時尾の母が言いました。「情げねえ。皆、生きるのが辛くて、恨みぶつける相手、捜してんだ」ユキ「戦の後で、もっと辛い目に遭うなんて」と泣く。 時尾のお母さん、冷静で良かったです(^^) 尚之助さん、米を買い付ける取引で詐欺に引っかかり、取引先から訴えられてしまいました(汗)役人「その方は、斗南藩庁の指示によりデンマルク商人デュースより米1500俵を買い付ける約定を交わしながら勝手にこれを解約。デュースより約定違反のかどで提訴されている。この取引、斗南藩の指示に相違ないな」尚之助「いいえ、藩命ではございません。これは全て私の一存にて執り行った事にございます」 斗南では、竹村が書状を持って来る。広沢「米の代金が工面できなかったのは、仲買人に騙されたからだべ。 それでも賠償金に応じなければなんねえのか」竹村「いや、あくまでそのデンマルク人は川崎殿との契約が守られなかった事で訴えている」広沢「この訴訟に負ければ、我が藩は3000両もの金を払わなければならない」竹村「それが先方からの申し越しによると、川崎殿は、藩命ではなく、全て自分がやった物だと。 まこと藩の指示ではねえのかと、先方から問い合わせてきやした」広沢「米の買い付けは斗南のためにやった事だ。知らぬ顔はできぬ」山川「関わりねえ。斗南藩はこの1件、一切、あずかり知らんと返答せよ。 この上、3000両の借財を背負うたら、斗南士族18,000人は間違いなく野たれ死にする!」広沢「おんしは、川崎殿を見捨てるおつもりか。それではあまりにも・・・」山川「鬼だ! 鬼だ、俺は」 非情に川崎を見捨てる判断を下した玉山鉄二さんの切なそうな表情、素敵でした♪尚之助さん、いい人なので、人を疑う事ができずに、詐欺に遭ってしまったのかもしれませんね?悪いのは騙した仲買人なのに、尚之助さんも訴える事ができないのでしょうか?その後、尚之助さんは、4年に及ぶ裁判を東京で闘う事になるそうです。八重に離縁状を送りました。きっと八重を巻き込みたくなかったのでしょう。皆の事を思いやって、本当にいい人ですね♪それにしても、つくづく運のない人ですね。元々、会津の生まれではなかったのに、わざわざ会津に来て、八重と結婚して戦争に巻き込まれてしまい、そして、今度は詐欺に遭ってしまって、被害者なのに、逆に訴えられてしまって、4年も裁判を受け・・・ それに比べると、覚馬は運がいいですね♪失明し、体も不自由になってしまいましたが、獄中で才能を認められて、新政府から仕事を与えられ、いい暮らしができて、時栄との間に子供もでき・・・ 覚馬が獄中で書いた文書を、岩倉が牧村正直(高嶋政宏)に見せました。これを書いた男は、素晴らしい才能だが、賊軍なので、新政府には入れられないとの事。木戸「牧村君の剛腕に、この男の才知が加われば、都は息を吹き返すだろう」牧村は、京都府の大参事で、京都を復興させるため、覚馬は彼のブレインになりました。覚馬は安定した生活になったようです。八重達を都に呼びたいと使いを出したようですが、八重達は米沢藩にいて、捜すのに苦労したようです。 尚之助から届いた離縁状は、訴えられた事とか書いてなかったので、なぜ離縁されるのか、八重は分からず、ショックを受けました。八重「何でも一人で決めてしまう。 尚之助様は勝手だ。 受け入れるほかに、道はねえもの」 結局、八重は理由がよく分からないまま、離縁に応じるようです(^^;)八重「私、間違ったべか? 斗南に行っていれば・・・待っていねえで、私が追っておれば・・・」うら「会いてえなあ、旦那様に。会いてえよ。きっと会える。会えば、何か分かんべ」 八重は、ともかく、うらの方は覚馬からの使いの者が来ても、一緒に京へ行かず、一人会津に帰る事を決意しました。うらは、手紙の字から女の気配を感じ、使いの人を問い詰めました。時栄という女がいて、赤ん坊をこの春、生んだと言いました。うら、本妻ではありますが、京の若い女には勝てないと思ったようです。恨み辛みを貯めて、愚痴をみねの前で言いたくないと(汗)女がいる事は言ったのに、なぜ迎えに来れないのかは、覚馬から言うなと言われたとの事で、言いませんでした(汗)どうして隠すのでしょう?今更、心配かけたくないからという事はないと思いますが(^^;)とにかく、うらはみねの事を八重と佐久に頼み、皆が京へ向かう日、一人だけ、会津に戻りました。若くて垢抜けた京女とその娘と一緒に同居するのは、確かに辛いかもしれません(汗)本妻とはいえ、もう9年も経ってしまったし、ドラマではいい夫婦でしたが、元々、見合い結婚。みねが生後7ヶ月の時、京に行ってしまったので、どれだけ、愛し合っていたのか、実のところ、よく分からないし・・・(汗)今とは違い、武士は側室がいてもいい時代でしょうから、覚馬の方は、皆で一緒に住む事に後ろめたさはなかったかも?とにかく、うらも離縁してしまいました。 みねは八重と佐久と一緒に、覚馬の元へ行きました。うらとみねの別れのシーン、みねが気の毒でした。父と生後7ヶ月で別れたので、記憶のない父より、母と一緒にいたいでしょう(汗)でも、経済的に苦しいのは目に見えてるから、うらはきっと八重達に託したのでしょう。八重がみねを育てる決意をしたようです。うらは、これから一人で会津に帰ってどうするのでしょう?戻る実家があるでしょうか?女が一人で生きて行くのは大変そう(汗) 八重達は、京の覚馬の屋敷に着き、時栄が出迎えました。すぐ後で、覚馬も見えない目と不自由な体で、ヨロヨロとよろけながら出てきて再会しました♪ 覚馬「母上、申し訳ございませぬ。 こんな体になってしまって、捜しに行く事も迎えに行く事もできなかった」 ようやく、佐久と八重も覚馬の事情が分かり、生きてて良かったと再会を喜びました♪この再会シーンのために、ドラマ的に隠してあったような感じですね(^^;)体は不自由でも、類まれな英知があって、大きな屋敷に住む事ができ、斗南藩の皆の生活とは雲泥の差の恵まれた生活です。良かったですね(^^) 廃藩置県は、全国200万の武士が職を失うものなので、大変なようです(汗)明治4年7月、廃藩置県の詔が下されました。斗南藩より、新政府軍に味方した諸藩の方が、怒っているではないでしょうか?(汗)また戦争になりそうですね(^^;)まだまだ新政府は前途多難なようです。次回は、「兄の見取り図」次回から京都編です♪ 【第31回あらすじ】米沢の八重(綾瀬はるか)の元へ、尚之助(長谷川博己)から離縁状が届く。気丈に振る舞いながらも、八重は悲しみを抑えきれない。尚之助は、斗南藩のために行った米取引に失敗し、取引先から訴えられ勾留されていたが、八重への手紙にはそれは書かれていなかった。1871(明治4)年、廃藩置県の詔が下される。斗南藩の主導者となり大蔵から名を改めた浩(玉山鉄二)は、藩がなくなることを知りがくぜんとする。米沢で知らせを受けた八重や佐久(風吹ジュン)、うら(長谷川京子)も、会津が何もかも消えてしまうと力を落とす。そんな中、八重たちの元へ今度は京都から知らせが届く。それは兄・覚馬(西島秀俊)が生きていて、八重たちを呼び寄せたがっているという内容だった。しかし、喜びもつかの間、覚馬に内縁の妻と娘がいるということを知り、八重は激怒する。 【視聴率推移】 (視聴率は関東地区)[第21回]14.1% [第22回]13.3% [第23回]15.0% [第24回]14.8%[第25回]12.9% [第26回]14.0% [第27回]12.9% [第28回]16.1%[第29回]14.5% [第30回]12.6% [第31回]15.4%最初から全部の視聴率推移は「別館」をご参照下さい TBは、『別館』へお願いします。<TB URL>http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/574086/57933738 できたら応援クリック、お願いします♪