テーマ:愛しき人へ(903)
カテゴリ:秘密の傷跡
彼は、何でも出来た。
アタクシには、そう思えた。 高校の頃は水泳部のキャプテンで、夏になると近くのプールでライフガードをしていた。 同じ頃、彼と同い年で随分いたんでいた◯ォードの◯スタングをアルバイト代で買い、エンジン改造が得意のお父様から色々習いながらどうやらはしる所までなおし、リビルドした。 この経験を持って、アタクシの父のおんぼろ車のトラブルはフュール・フィルターが詰まってしまっているから、とエンジン音を聞いただけでぴたりと診断した。 頭上をヘリコプターが通ると、プロペラ音に耳をすましながら腕時計とにらめっこし、あれは何々社の何々号だ、いやちがう、絶対に何々号だ、などと仲間と当てっこをしていた。 ベランダで聞こえる鳥のさえずりに急に耳を立て、「おばさん、珍しいよ、あれはスカーレット・タナジャーの声だね」と母に言ったそうだ。ベランダに出て、眼をこらして見てみると本当に赤い頭の鳥が木陰から出てきた、と母は言う。 仲間に新しい友達が加わったりして馴染めないでいるときや、皆が心を許してとけあっていないような場では、一言で皆の心をなごましたり、皆を笑わせたりして連帯感をなにげなく、いとも簡単に育てた。 出来ないことも、もちろんあった。 絵が、思わず噴き出してしまうほど下手だった。設計図を描かせれば正確に描けるのに、絵はとりわけ下手だった。 歌も、踊も、苦手だった。 見かけによらず、遊園地の乗り物に弱かった。その上、「次はあれ!」と引っぱるアタクシの手前、痩せ我慢して、指の節が真っ白になるほどシートベルトやカートのふちに必死にしがみついていた。ローラーコースターの頂上でアタクシが手を放してバンザイなどをすると、蒼白になった。「つかまってないと危ない!危ないだろう!」とケラケラ平気なアタクシに叫んだ。 運動神経や反射神経はあんなによかったのに、武芸では、最後までアタクシの方がずっと強かった。 お酒に弱く、殆ど飲まなかった。 作文も苦手だったのに、一生懸命、胸が熱くなり涙が止めどなくこぼれてしまう様な手紙を何通も書いてくれた。 仲間中、皆の相談役だったのに、自分の心に秘めた苦しみや悲しみを表現できなかった。 おてんばのアタクシの事を絶えず心配して、心を傷めた。アタクシは、こんなに丈夫なのに。 そして、アタクシがいくら哀願しても、もう還ってはこれない所へ行ってしまった。 いくら泣いても、青空の奥を眼をこらして探しても、星空のしたで立ち尽くしても、もう一言の慰めの言葉もかけてくれることのできない、一目も会ってくれることのできない人になってしまった。 アタクシの願いなら、何でも叶えてくれたのに。 アタクシが甘えてねだると、何でもできる限りしてくれたのに。 アタクシの涙に、あんなに弱かったのに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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