テーマ:今日のこと★☆(106276)
カテゴリ:洋館の毎日
その人は、呼吸をしていなかった。車椅子に座ったまま膝にうつ伏せに倒れた姿勢で、両手首が地面にグニャリとついていて、一目で「これは大変」と感じた。
昨日の午後、仕事の帰りに近所のマッサージに行き、治療後いつもの様にクリニックの裏口から出ると、普段その遅い時間には誰もいない駐車場にその人が気を失っていた。 「Sir? Excuse me, sir? Can you hear me? Are you all right? Sir?」 反応がなかった。本当に息をしていない様子だ。両手が黒ずんだ紫で、肩をゆすって顔を覗き込んでみると白目を向いて、舌をだらりとたらして、よだれがながれていた。まずい。ゾクッとした。 クリニックに駆けこんだ。療法士がアタクシの顔色を見て、どうしたのか聞く。早口に説明し、二人で駐車場に駆け出る。 もう一度揺すってみる。療法士と二人でそのぐったりした体を抱き上げる様にすると、初めていびきのような呼吸音をたてた。 「This doesn't look good. I'll hold him up. You call 911.」 携帯で救急車を呼ぶ。待つ。救急車を待つ時間は、普通の時間より遅く過ぎるように感じる。待つ。待つ。その人は辛うじて息をしているが、ひどい顔色をしている。青黒い、あざのようだ。 やっと救急車が二台、サイレンけたたましく現われる。医療補助者が四人がかりで治療を始めたとたん、また息をしなくなり、人口呼吸装置を取り付けた。応急手当をしながら、アタクシ達に状況を聞く。 なかなか息をしない。療法士とアタクシはそばで見ているだけ。時々「まずいね」とか「どうしてこうなっちゃったんだろうね」とかささやきあう。なにも出来ない。 医療補助者は深刻な顔をしている。一人は、心臓音を探してしきりに首を振っている。 「He's still not breathing. What's his pulse-ox?」 「72.」 72。そんなに低い。息を思いっきり詰めて苦しくなるまでがまんしても九十いくつ。アタクシは怖くなるが、眼をそむけない。 最初は「おじいさん」と思ったのだが人口呼吸で血色が良くなり始めると意外に若い中年の人らしい。そしてその最初のどす黒さから肌の色の濃い人だと思っていたのが、みるみるうちに「白人」になっていく。どうしてこんなさびしいところで、車椅子に乗って、一人で倒れていたのだろう。治療はまだ続いている。息を、しなくちゃ、息を、がんばれ!と思っているうちにアタクシまで息苦しくなった。 療法士がアタクシの顔をのぞいて、大丈夫?と聞いてくれた。もう六年ほど通っていて、すっかりお友達になってしまっている「優しい一生懸命お兄さん」タイプの療法士だ。 「うん、でも、とても悲しい」と答えると、肩に腕を回してくれた。二人でまたしばらく様子をみたが、治療が終わりそうにない。「有難う、もういいわ、アタクシ残るから帰って」と二回ほど言っても「なに言ってんだよ、一緒にいるよ」と居座ってくれた。 三十分ほどすると、突然、吠えるような声をたててその人は自分で呼吸をし始めた。「これは、吐くな」と思ったけれど吐かなかった。一息づつ呻くような、吠えるような声をあげた。生きていることを宣言する様に聞こえた。ああ、良かった。 医療補助者が色々な装置をはずしながら、「有難う、もうお帰りいただいて結構です」と言ってくれた。(アタクシは書類とか取材とかあるかな?と思ったが、なかった。) もう一人の医療補助者が、「呼んでくれて有難う、呼んでくれてなかったらこの人確実に死んでましたね」と明るい声で微笑した。「その人の命を今救ったのは、貴方がたでしょ?アタクシ達は指をくわえてみてただけなんだから」と言うと、その医療補助者ははにかんで真っ赤になった。 洋館に帰ってからムーミンにこの話しをしたら、アタクシが呼吸困難になったわけでもないのに、大きな緑色の眼をさらに大きく見開き、蒼白になって、「大変だった、大変だったんだね、もうきっと大丈夫さ」と抱きしめてくれた。 まだ、少し悲しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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