テーマ:お勧めの本(7401)
カテゴリ:不真面目文学
輝くひなたまさみ様のご紹介で初めて林芙美子の本を読んでいる。 アタクシの乏しい語学力でちゃんと読めるのかしら、と心配だったがいざ読み始めると面白くて面白くてついパソコンをベッドに持ち込んで夜更かしをしてしまうほどどんどん読み進んでしまう。 若い彼女が酷い貧乏な生活をしながら一生懸命作家として活躍していた毎日を綴る「放浪記」が素晴らしい。彼女のこの青春時代にアタクシの祖母が生まれていたんだ。そう思うと一層興味深い。 赤だの黒だの桃色だの黄いろだの疲れた着物を 三畳の部屋いっぱいぬぎちらして、女一人の きやすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子。 三畳の部屋ってどのくらいなのだろう。 以前に書いたかもしれないが、いつか柳美里の本に「今度は四畳半一部屋のアパートを借りるんだ」と書いてありぎょっとした。母にこの「四畳半」が把握できないという話をしたら「そうねぇ、あんたの家の一番小さな、ほら、一階のパウダールーム(=お手洗い)がちょうど四畳半ぐらいよ」と言われた。この部屋は洋館が建てられたころ給仕用の控え室だった。それを無理矢理パウダールームに改造した感じなのでコチラの普通のお手洗いよりも随分小さい。そのパウダールームに立ち尽くしてこの大きさの空間で生活するにはタンスも机も置けないんじゃないか?と疑問に思った。 それよりもさらに小さな三畳の部屋に「疲れた」着物を脱ぎ散らして、って言っても一枚で一杯になってしまうのではないだろうか。 でも「女一人のきやすさ」にうなずける。学生時代に初めて家を出て住んだ部屋の狭かったこと。けれど一人気楽でこれ以上なく嬉しかったわくわくがいまだに懐かしい。一軒家での共同生活だったので本当の「一人暮らし」ではなかったけれど自分で家賃を払って借りた部屋にどきどきした。 当時やはりベッドに寝転んで読んだヴァージニア・ウルフの「自分自身の部屋」を思い浮かべる。女性が作家として活動するには自分自身の部屋(と資金)が必要、というもっともな論を1929年、ちょうど林芙美子が「放浪記」を綴っていた頃に出版していた。働く女性の苦労は少しづつ軽くなっているのだろうか。 こんなに生活方針がたゝなく真暗闇になると、 泥棒にでもはいりたくなる。だが目が近いので いっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいと おかしくなって、冷い壁にカラカラと私の笑いが はねかえる。 泥棒にはいろうか、という大胆な発想を「目が近いので」という現実的な理由で笑い飛ばすこの女性、タダモノではない。 祖母も酷い近眼だ。でも「女は眼鏡などいらん」と断言する兄が戦争へ行くまで家で眼鏡をかけられなかった、という。どういう社会だったのだろう。同じ世の中の様でまったく異次元にも思える。 失恋してふらりと旅に出かける自由を羨む前にその勇気を讃えたい。殆ど無一文で列車に乗り、気がむいた駅で降りて宿を探したり臨時の住み込み奉公をしてみたり、彼女と同い年ごろのアタクシに出来ただろうか。いや、今の、少しは逞しくなったつもりのアタクシに出来るだろうか。 そういえば本当の一人旅をした事がない。人に会いになら長い間列車に揺られたり、飛行機に乗ったりしたけれどもあくまでも「待ってくれている人に逢いに行くため」で純粋な憧れの「一人旅」ではない。 東京へ行こう! 夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅。 駅の時間表を見ていると涙がにじんで来る。 悲惨な長距離恋愛をしていた頃、駅の時間表を見て同じ様に涙ぐんだ事がある。爽快に描かれる飛行機雲を見上げては溜め息をついてみたり。 「貴女ぐらいよく住所の変る人ないわね、 私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」 ちょうど同じ様にもうあんたの住所は鉛筆でしか書かないから、と毒づいた事がある。だが「一人」どころかアタクシの友人の場合住所録汚しが三人ほどいる。百年も前に生まれた人達が同じ会話をしていたなんて、くすぐったい。 私は黄色の着物に、黒い帯を締めると、 日傘をクルクル廻わして、幸福な娘のように 街へ出た。例の通り古本屋への日参だ。 「幸福な娘のように」という表現にぐっとくる。どれだけ辛く切羽詰まった生活をしていても「幸福な娘のように」街へ出るのか。 アタクシも学生時代古本屋が大好きだった。大きな古本屋のご主人と顔見知りになってしまい「ここで勤めてくれない?」と聞かれてしまった事があるほど古本屋に入り浸っていた。たとえ失恋しても、学生新聞で辛い事があっても、ちょっとだけおめかしして古本屋へ一人くり出すとその古い煉瓦の街並にさえわくわくした。みんなでわいわい遊ぶのもよかったけれど本当に自分らしい時間を振り返ると掘り出し物の初版を狙って古本屋の本棚を覗いているアタクシがいる。 林芙美子も「幸福な娘のように」古本屋へ行ったのだ、とさらに親しみを感じているとぎゃふんと言わされる。 彼女は本を売りに古本屋へいくのだ。貧しさのあまり。 一ツ二ツの童話位では、満足に食ってゆけないし、 と云ってカフェーなんかで働く事は、たわしのように 荒んで来るし、男に食わせてもらう事は切ないし、 やっぱり本を売っては、瞬間々々の私でしかないのだ。 もっとじっくり読むべきなのだがさらさらと駆け抜ける様に読んでしまう。青空文庫でなく文庫本だったら部屋中に読み散らかしているだろう。 ひなたまさみ様のお薦めの「晩菊」は最後まで大切にとっておこうと思う。幸福な娘が食べるケーキのてっぺんのイチゴの様に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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