テーマ:こわーいお話(348)
カテゴリ:旅先
彼女は泣いていた。
暗闇の中、やっと見えるケリーの輪郭。 ぐすん、と手の甲で涙を拭く。 しばらくして、あぁ。とため息をついた。 幸せと愛情で満ちあふれてて泣けちゃったよ、と言う。 え? 「昔ここで舞踏会ってしょっちゅうあった?そういうのって年に二回とか三回とか思ってたけど、毎月?いや、毎週?あったみたいだね。ここで出会って、恋に落ちて、結婚した後も仲良くここで踊って、二人ともこのボール・ルームが一番大切な思い出の人がね、まだ踊ってるのかな、音楽が聞こえるよ。」 こちらまで切なくなる涙声だ。 「あたしなんで泣いてるんだろ。止まんないや。」 へ? 「こんな風に愛し合って、幸せに暮らして、おじいさんおばあさんになっても一緒に踊って、ほとんど一緒に死んでいった人って、いいな。羨ましいよ。あたしこれ程愛される事は一生ないんだろうなって思うと余計泣けてくるよ。」 暗闇の中、見えない人々がクルクル踊りながらすぐそばを通っているのだろうか。 ぞくり。 鳥肌が立った。 「ご存知の方少ないですけど、確かに昔は毎週舞踏会があったんです、まだ馬車の時代ですけど」とKが震える声で言う。 「踊る婦人や紳士方が見える、ってお客様、私もお相手した事あります。もっと多いのが、音楽が聞こえるって...」 お、音楽って、今聞こえてんの? ケリーの輪郭が首を傾げる。「ピアノが聞こえない?なんか聞いた事ある曲だけど、なんて言うんだろ。」 ...聞こえない。 だが思いあたる。 それって、こういうの?と「美しく青きドナウ」をちょっと歌ってみると、 そうそうそう、それ、 とケリーが頷く。 まぁ、ありがちだけど。もしかして二人とも「古いワルツ」=「美しく青きドナウ」しか思いつかないのかもしれないけれど。 アタクシ、聞いてしまったらしい。 あの晩。 エレベーターが、深夜真っ暗なこの階で止まってしまったあの晩、かすかにピアノが聞こえた。 あの時、エレベーターの中、苦笑した記憶があるのだ。 「あー、『美しく青きドナウ』ね、あれ弾いてれば気楽に十分は稼げるもんね」と同じように時間を稼いだ事があるので、頷ける選曲だ、と思ったのはとんだ間違いだったのだろうか。 下の階のレストランからだと思ったけれど考えてみるとおかしい。 レストランがピアニストを雇っていたとして、あの時間にはもうとうに帰ってしまっているはずだ。 鳥肌が治まらない。 それにしてもあれほど恐れていたボール・ルームで、そのまま少女漫画にできそうな美談に恵まれようとは。 次の日、もう一度覗いてみた。ガラス越しに見た昼間のボール・ルームはどこか寂しげだった。 - - - 続く あるいは、目次 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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