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☆タムちゃんキョンちゃんの青い空☆

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2007.07.07
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カテゴリ:カテゴリ未分類
爺ちゃんが亡くなって明日で 二・七日。

ちょうど日曜日に法事が入るので 私も寺にいけます。(爺ちゃんありがとう)

私は、正座が大嫌いで5分もできないけど お寺の住職さんのお説教は大好き。
昔 尼僧に憧れたこともある いっぷう変わったタムママです。

祖父が戒名をいただいたのは 浄土真宗東本願寺のとあるお寺さんなんだけど 
とても話が分かりやすく面白かった。

中でも 冥福の話。


「最近はよく、“冥福をお祈りします”というふうにいわれますが、冥福と言うことばは使うべきではない、むしろ、使わないで下さい」とおっしゃる住職さん。
なぜに???と思うよね。

「冥福の冥、という字は くらやみの世界という意味なんですよ。あなたは今から暗闇の世界で幸せになってください、ということになってしまいます。死ぬと言うことは 不幸なことではないんですよ。」

あとは 私が書くとニュアンスが変わってくるかもしれないから 書かないてゆーか忘れたけど そういう話でした。なるほど。じいちゃんが暗闇の世界にいってしまうなんて嫌だから 私はこれから使わないようにするぞ!ちなみに 昔は 「お浄土に行ってね」と言っていたらしい。それがいいのかな。


ところで 爺ちゃんの話。
子どものときは とっても大好きな爺ちゃんでした。
怒る事もなく とても優しくて トランプを教えてくれたり 散歩に行ったり、よく笑う爺ちゃんでした。


思春期になって 爺ちゃんとちょっといろいろあったのと、(このへんも 故人の名誉のため書けないのですが)娘である私の母との確執なんかもあったみたいで 私も行かなくなったし、母も 爺ちゃんのうちに行かせたがらなくなりました。


タムを産んでから1回会ったけど 会話らしい会話もせず、、、

じいちゃんちに行かなくなった理由を兄に話ししたのが一昨年。下手すると警察沙汰にもできそうな 私の秘密でした。だけど、兄は 同情するどころか 「気持ちは分かるけど、過去のことは水に流して」と言いやがりました。なので しぶしぶ行った昨年のお正月。爺ちゃんは高齢になって 目もあんまり見えなさそうでした。私は爺ちゃんに何も喋りませんでした。帰るとき爺ちゃんは タムの手にチュッとしました。少しゲッと 思いました。


次に爺ちゃんにあったのが 今年の2月でした。
入院したという知らせを聞いて 心配と言うより 看護師として 母から病状を聞くより自分で様子を見たかったのが本心でしたが お見舞いに行きました。

母が「私のこともわからんよ」と言っていたのですが 私が耳元で「爺ちゃん、誰でしょう?」と聞くと 「陽子ちゃん」と 昔みたいに答えてくれました。少し認知症が出ていましたが そのへんは仕事で慣れています。爺ちゃんとまともな会話は出来ませんでしたが 久しぶりにふれあいが出来ました。

悲しかったのが トランプを忘れていたことでした。

じいちゃんの家ではあんなに恒例になっていたし 「占い」という どこが占いなのかわかんないけど 4枚ずつ縦に並べていって 同じ数字が縦横斜めにあったら抜いていって 残りが0になったらいい、という遊びだったんですけど それだって 爺ちゃんに習って 爺ちゃんちでは毎回やってて 今ではタムにも伝授しているのに 爺ちゃんに「昔 トランプいっぱいしたよねぇ」と言ったら「えーそうね?」と 爺ちゃんはすっかり忘れていました。「えーそうね?」という口癖は変わっていませんでしたがね・・・・・。
私はこんなにも覚えているのに。

私が 来ない間にこんなにも月日がたっていたのかと 痛感させられましたね。

今まで 仕事で認知症の方々はたくさん見てきたけど その家族の悲しみを味わうのは初めてでした。爺ちゃんありがとう。


肺炎で入退院をしましたが 退院してもやっぱり自宅には行きづらくて・・・・退院してからは行っていませんでした。

そして 6月20日。
また爺ちゃんが入院したよという知らせを受けました。今度は酸素マスクもつけているよと言われ これまた 心配なのかなんなのか分からないけど その日のうちに私は病室にいました。
そこから毎日往復をし 6月24日には危篤となり その日の地域行事が済んでから娘も連れて見舞いに行きましたが 小康状態でした。私は次の日の学校にタムを休ませてでも残りたかったけど 主人は学校を休ませるのが嫌いな人・・・。言えなかったし 小康状態だったので帰りました。死に待ちなんてのも 嫌だしね。帰るとき 「でもさ、こうやって帰れるってことは うれしいことだよね」と オバサンに言うと オバサンは目に涙を浮かべていました。主人は 「陽子が気の済むようにしたら」とみんなの前では言いましたが 私が残ること=車もないし どうせ何かあったら一旦帰宅しないといけないし タムのこともあるので 帰ったんです。 


翌日 主人に「私帰るね」と言ったら 「帰るの?」って 言いました。最近高騰したガソリン代のことを気にしているんだと思います。さすがにそんなことは言いませんけど 普段から 節約の為に その日の私の外出予定の有無で どっちが軽だのワゴン車だのって 車を代えるのですから。

主人は男だし 私の祖父だしってことで 別に看取りとか そんなことは頭にないのかもしれないけど このまま「亡くなったよ」っていう連絡は後悔が残ります。なので 「この前 婆ちゃんに1万円もらったし」と 先手を打ちました。旦那が「なんのこと?」と言わなかったってことは 図星だったのでしょう。

 
タムのくつがぼろだったので ついでに市内で靴を買ってからいくわ、と のんきな事を言い、弟の嫁に見せるつもりで 爺ちゃんの写真を探し こっちを出たのが9時ぐらいだったかなぁ。出て40分ほど走ったところで 母から 酸素飽和濃度が低くなったという報告を受けました。そして 「酸素マスクがおおきなのに変わった。看護婦さんが 押してる」と。いよいよ心肺蘇生かなと ガクガクしました。「陽子今○○だから 待っててって(爺ちゃんに)言って」。そうメールすると 靴どころじゃなく ほんとに飛ばさないと間に合いません。

一車線なので 泣きながら遅い車にやじを飛ばしました。「はやくいけよーー!!!!」「じいちゃん逝かないでよ」


制限速度80キロの高速を120キロぐらいでぶっ飛ばして ようやく1時間半後に病院に着きました。


「爺ちゃん!!!」


臨終の間際の静寂の中で こんな大声を出す人もそうそうないのでしょうが 嫁や娘を差し置いて 私は爺ちゃんの横に座り 手を握りました。
爺ちゃんはすでに意識もなく 瞳孔も少し開いていました。看護師さんたちが 心肺蘇生をしててくれました。チアノーゼになりつつある手をさすり 爺ちゃんにいっぱい声を掛けました。こんなとき そういうことをするのが恥ずかしいって人もいるけど 私は感情をとても出すほうなので 恥ずかしいとかいっていられない、爺ちゃんの命に関わるんだからと。うるさかったかもしれません。そして 誰も泣いてなかったけど 泣きたいのはみんな一緒。それなら私が泣きやすくしてあげようと 真っ先に涙腺の詮を外しました。

婆ちゃんが 「ずっと看護師さんたちがしてくださってるんだよ」と言ったけど 同業者の目で見ると 多分 家族がもういいですと言ってくれるのを待ってるんだろうなぁと 思います。不謹慎な話ですが はっきり言うと 見込みがない人にずっと二人がかりで心マを続けても 他の業務が滞るわけですから そっちのほうも気になってたりするんですよね。それに 私は 体位変換すらまともにやらないここの看護師に不信感を抱いていましたから 心のそこから一生懸命やっているとは思えなかったんです。私がこっちに住んでいれば 毎日でも介護に行ってあげたんでしょうけどね。そしたら 誤嚥なんかしなかったかもしれません。分かりませんが。


しばらくして そっと母に 「もういいんじゃないかなー。爺ちゃん可哀想だよ」と言うと 母はそんなこと(家族の意志で中断されることもある)知りませんから ピンと来ないようで「え?え??」と言うかんじでした。でも それから間もなくして お嫁さんが 母を呼び その話をしたようです。ヘルパーさんですから そのへんは分かっているんだと思います。

結局 ドクターの判断で まだ 頚動脈が動いているということから しばらく 続けましたが そのうち 脈も触れなくなり・・・・・ 自発呼吸も全く見られなかったので 11時40分 死亡ということになりました。

テレビでよくある 「ご臨終です」といって 医師や看護師が手を合わせるシーンがなかったので 母も 看護師が出て行ったあと 「え?何?」という感じでしたが 私が 「爺ちゃん 今だったよ。11時40分だったよ」と 言い方でした。最後の最後まで 冷たい病院でしたねー。まぁでも 素人目でみるとすれば 普通にはちゃんとしてくださったと思いますよ。 




それから しばらく爺ちゃんとの別れを惜しみました。
私は 爺ちゃんの魂が今ごろ私たちを見ているだろうなぁと思って 窓を見上げてみましたが 霊感がない私には何も見えませんでした。神道である婆ちゃんが神社に頼んで祈祷してもらった病気平癒のお守りも効果はなかったです。。。ま、それはそれで 別のほうでいいふうに働いてくれると思いますが。


婆ちゃん、伯父さん、母、父、お嫁さん、私、弟、弟の嫁など 8人も看とれました。こんなに多くの親族が間に合うなんて なかなか爺ちゃん幸せ者じゃないでしょうか。死んだ人の気持ちは分かりませんが 誰も居ないよりはいいかなって。。。

弟の嫁さんがね これまた人間のできた子で 私を抱きしめてくれましたよ。日本人で抱き合うって なかなか出来ないことですが 暖かい気持ちを感じましたねー。気が付いたら義妹のハンカチで拭いていましたし。



急いで家に居る主人に連絡をし 学校へタムの迎えを頼みました。そして 中間地点である場所まできてくれと。それには私の父も同行しました。あんまり率先して動くタイプではないですから・・・まして婿ですしね。

向かう途中に爺ちゃんのこと 「ほんに変わった男じゃった」と悪口を言ったのには勘弁してよって 思いました。死んだその日に悪口なんて ちょっと聞きたくないです。


旦那とすれ違うまで車を走らせて 荷物を移し変えるとき最初に言われた言葉が 「夜勤に間に合わない!!!はよせー!」。
父に挨拶をしたり、「大変だったね」の一言もかけられないのかお前は!と 思いました。身内の不幸なんだから 30分ぐらい遅らしてもらうとか 最初から夜勤の準備してそのまま行けやって思ったけど。 



この続きはまだ書き足りないので また今度書きますね。


























 




































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最終更新日  2007.07.07 12:11:18
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