テーマ:人間関係(927)
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私はもともとお笑いが大好きなんですね。中学から大学生まではとくに、録画してまでお笑い番組をみていましたし、ライブにも何回か行った事もあります。でも、だんだんその手の番組を見なくなり、近頃は全くといっていいほど見なくなってしまいました。意識的に見ないようにしたというより興味がなくなってしまったから見ないという感じです。
ここのところ、ずっとメディアでは「いじめ」による自殺の問題がとりあげられ、討論番組なんかも多いですね。メディアそのもの、特に「テレビ」の影響力のすさまじさはみなさんもご承知の通りかと思いますが、テレビが与える影響のひとつで、今無視できないほど若い人や子供たちに大きな影響力があるもののひとつに「お笑いブーム」も含まれるかと思います。「お笑い」と「いじめ」の関係について、私がずっと気になっていたことを書きたいと思います。 お笑いといえば「ボケ」と「ツッコミ」そして「キャラ(キャラクター)」という言葉。この言葉は、もはや一般社会にも浸透していると思われます。お笑いではもちろん、芸人さんが「ボケ」や「ツッコミ」というキャラクターを演じ切ることで「笑い」にするおもしろさがありますが、例えば学校という狭いコミュニティーの中でも、子供たちそれぞれがこの「ボケ」と「ツッコミ」という「キャラ」を演じている、または演じることを強要されている場合も多いのではないかと思うのです。 以前「自分の山を登るということ」というブログにも書いたことがありますが、子供たちが成長する過程において、最初の段階(おそらく小学生あたりまで)は根っこをしっかり張るために必要な陽性の力を最大限に発揮する必要がある時期でもあり、ある程度主観的=自分の山だけを見て登る姿勢であってよいと思います。それが、この「ボケ」や「ツッコミ」というキャラクター概念が入ってくると、とたんに人の山を見ながら「自分はどういうキャラクターを求められているのか」を考えつつ自分の山を登らなければならなくなったり、本来の自分とは違う、他人の山を登るという人まででてきたりします。この状態というのは、自分がどういう人間であるか、しっかり根っこを張った上で主観的に考え、それから他人の山と比較することで客観性をもち、他人との関係を構築して社会生活に適応できる力を育むというプロセスをすっ飛ばすことになり、自分がどういう人間なのか、演じている人間が私なのかどうか分からなくなってしまう危うさがあるように思うのです。 また、往々にしてこの時期に必要なプロセスをしっかり歩んでいる=主観的に自分の山をドンドン登っていく子供(本来であれば自然な姿)なんていうのは、「ボケ」キャラに分類されがちです。「ボケ」キャラに分類されると、客観的に見てどこがずれているのかを指摘する「ツッコミ」キャラが横行するようになり、いじめの一つの図式ができあがります。当然「ボケ」キャラに分類されている子供は、お笑いのように「ボケ」を演じているわけではないのですから、揚げ足をとられるようにつっこまれたりすると当然傷つくでしょう。でも、今の世の中そういう「揚げ足を取って突っ込み、笑いにする」お笑いがあふれすぎている気がしませんか。しかも市民権も得ているので、子供だけではなく、社会全体にこういう風潮があります。結局「自分の山」を登ることより揚げ足をとられまいと「他人の山と比較しながら登ること」に一生懸命にならなければ生きづらい世の中ができあがってしまっているということではないでしょうか?自殺に追い込まれる子供たち。学校を出ても社会に出ても逃げ場がないように感じるのも分かるような気がします。子供たちに、もっと「自分のことを知り、探求し、自分の山を登る」ことの必要性を訴えるためには、大人も他人の山、価値観に囚われすぎずに、自分の山を登る姿勢を見せることが必要ではないかと思います。 余談ですけどドリフの「8時だよ全員集合」なんて、今のボケとツッコミのお笑いとは全然違ってましたよね。「志村うしら~」なんて言いながら志村になりきって部屋の中を走りまわっていたあの頃が懐かしいです。今一度毎日の「テレビ」について考えてみるのも良いかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月05日 09時15分38秒
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