|
カテゴリ:カテゴリ未分類
そんな心強い婦長に会わぬまま近況報告を心配しながら電話で受ける私を尻目に母は、
「毎日楽しいがよ。」 祖父の側にいていつ病院から来るかも知れぬ電話を待つよりはよいとは思いますが・・・。 にぎやかなのが好きな母曰く、毎日かわるがわる訪問看護さん、ドクター、介護士、リハビリの先生、薬局さんがかわるがわる来て祖父や祖母の事を相談したり、はじめなれないうちは時間外でも婦長や看護士さんがいて夜中まで栄養やじょくそうの処置、薬について一緒に検討してくれたり指導してくれたりで毎日が生き生きしてるようなのです。 そんなおかげで一時祖父の足は白くなり再生のきざしが見られるという奇跡的な状態にまでなりました。 がしかし、ターミナルを宣告されている祖父の内臓の状態が良いわけは無く結局逆戻り。 かわるがわる婦長が連れてきた名医が「お大事に」とだけ言い残し去っていく中、一人の先生が祖父の足を見て「こんりゃーかわいそうや。僕が切っちゃお。」と申し出てくれ内蔵をも蝕みそうな祖父の足は切断される事に。 切断に対しての周囲の色んな気持ちをよそにターミナルを宣告されていた祖父は切断をきっかけに状態がとても落着き、穏やかな日々を過ごせるように。 そんな婦長や周囲の人に会いたくて、祖父の介護を少しでも手伝いたくて今年二月に1ヶ月帰省。このときは結局婦長とは会えず。 母の介護は私の想像を絶するもので、母以外三人が病人。 母は1日中夜遅くまで動きづめ。 母を手伝いながら母や看護さんやドクター、そして祖父本人の表情にまで学ぶ事が多く 二月の帰省は私の人生においてとっても大切な事を学んだとおもいます。 そして疲労困憊ながらも本当に振り返れば楽しかった! 祖父はすでにその頃から肺炎を繰り返し、いろうも胃が細くなっているのかもれたり落ちなくなったりするように。 五月にいとこの結婚式に出席する為祖父と祖母を病院に預かってもらう予定を祖父だけ四月の 早いうちから入院させることに。 そして帰ってきた母に婦長が「自宅に返せない状態だから」と母に告げ。 祖父のここまでの辛抱強さを信じていましたが・・・。 6月14日朝危篤の知らせを母より受けました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|