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カテゴリ:読書
大江健三郎の短編集を読み始めた。
まだ全部読んだ訳じゃないんだけども、表題作「死者の奢り」が印象的だったので。 この短編小説は、いわゆる「死体洗いのアルバイト」についての物語だ。 このバイトの存在の真偽についてはひとまず置いておくとして、「死者の奢り」なる不気味なタイトルの小説が「死体洗いのアルバイトの知名度を高めたのは確か」ではないか、と、ものの本には書いてある。 地下の真っ暗な空間で、高給を得るために物言わぬ肉の塊となった死体のメンテナンスをする……この非日常的なシチュエーションに好奇の心を惹かれる人々は絶えない。 そうでなければここまで広く長く流布する噂ではないだろう。 また、別のテクストに拠れば、この噂は「強烈なホルマリンの臭い」と共に語られる事があるらしい。 「手に染みついたホルマリンの臭いで、三日は飯が喰えなかった」と。 だが、「死者の奢り」において使用されている薬品はホルマリンではなくアルコールである。 しかし、その強烈らしい臭気の存在はありありと、確かに伝わってくる。 この場合のアルコールの臭いとは、単なる薬品の臭いであると同時に「死」の臭いでもあると思う。 閉塞的な地下室なる空間、普段ならば抽象的にしか感じ得ない「死」が、いくつもの人の形をとって現出している。 死に触れる機会が減少し、また死そのものを隠蔽しようとするシステムが発達した社会では、解剖用死体を集積する地下の薄暗い部屋はまさしく異界だ。 人の形をとる死と、それを視る生者。 全く違う世界の住人であるこの二者が、死の満ちた異界において相まみえるための媒介として必要となるのは死体保存用のアルコールである。 防腐剤としてのアルコールの存在が、地下室という異界の中で死者が死者たりえる要素を満たしている。 そして死者から滲み出る死のエッセンスはアルコールの臭気と混じり合い、この異界に生者の世界とは違う濃密な空気を形成する。この空気に中てられるのは眼前に広がる死を垣間見、それを程度の差こそあれ感じ取るということだと思う。 「生者」と「死者」は似て非なるもので、その本質にひどく隔たりのある関係ではないか。 であるならば、地下室で一時的に死体と同時に居る事で「僕」が「意識をそなえている人間は身体の周りに厚い粘液質の膜を持ってい」ると考えたのは隔たりが減退して二者間の距離が縮まってしまっている状況だ。矛盾する表現だが、生きながらにして死者の思考に近付いたのだと思う。 後にこのアルバイトは大学の事務の手違いであった事が発覚し、「僕」の労働は徒労に終わってしまう。 が、短時間にアルコール漬けの死者の群れという形での、濃密な死の集積に触れた「僕」の肉体からは死の残り香――アルコールの臭気がいつまでも残ったのだった。 ――――――― 女子学生は眉をひそめ、寒さにかじかんだような顔になり、そこには笑いはすっかり、影をひそめていた。 「あなたは、臭うわね」と女子学生が急にいい、顔をそむけた。「とても臭うわ」 僕は女子学生の頑くなに天井を見上げたままの、逞しい首が少し垢じみているのを見おろし、君だって臭うよ、という言葉を噛み殺した。 (大江健三郎『死者の奢り』) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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