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カテゴリ:読書
宮田登「妖怪の民俗学」(ちくま学芸文庫)を再読。
やっぱり内なるものと外なるものを隔てる「辻と境」の話が印象深い。 我々は外界と内界の境界線を持っていて、それは決して平生、意識しないながらも根底にこびり付いて離れる事の無い感覚なのだろうと思う。 確か、ギリシャの伝説で「ヴリコラカス」(Vrykolakas)という怪物が居た。 この怪物は部屋のドアをノックしたり住人に呼びかけたりして、それに応じた人間を殺してしまうとされていたらしい。 ドアによって隔てられているために内部への侵入が不可能で、さらにそれを解消するためにノックや呼びかけを行うというのは、本来なら混じり合う事のない二つの世界――現世と隠世――を「ドア」という境の空間を通して一つに結合し、内界の存在である生者を引きずり込もうとする儀礼のような意味合いがあるのかもしれない……などと考えてみた次第。 また、ヴリコラカスは「不適切な埋葬をされた者」がなってしまうとも言われていたらしい。「不適切な埋葬」とは、すなわち生の世界との決別が不十分であり、死者になりきる事のできない状態ではないだろうか。 生と死の中間点に位置する「境」としての存在がヴリコラカスなら、それは二つの世界の橋渡し役(非常にネガティヴな意味合いで用いざるを得ない……)のようなものと解釈できるのかもしれない。 ――――――― また、夢野久作の短編「木魂」を思い出した。 小学校の数学教師が踏切で懊悩するという話。 踏切という場所は、それ自体が物理的に「こなた」と「彼方」を隔てる境であるけれども、遮断機の下りていない普段の状態は、二つの世界は繋がっている。 列車や汽車が走ってその場所を通る事で初めて、断絶の時が訪れるのだ。 だが、踏切の上はやはり二つの世界の中間地点である訳で、そこで列車に轢かれた者は「こなた」から「彼方」の住人となってしまう(この場合は物理的な意味合いではない)。 「木魂」では主人公の数学教師は列車に轢かれて死んでしまうが、事故現場となった踏み切りは、彼の息子がかつて列車に轢かれて死んだのと同じ場所なのである。息子の真っ赤な血潮を吸い込んだ場所に他ならないのだ。 それは、「こなた」から「彼方」へと通じる道が、主人公の息子の死という要因によって結ばれた事を意味しているように思われて仕方がない。 境である踏切で、主人公の頭の中に響き渡る息子の声……断絶された二つの世界を繋ぐ「境」という空間の特異性が、主人公を引きずり込んだ。 「妖怪の民俗学」を再読して、そんな取り留めのない事を考えてしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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