|
カテゴリ:読書
読書会に参加しての読書。
ジュール・ヴェルヌ「地底旅行」(朝比奈弘治訳・岩波文庫)読了。 感想が思いのほか長くなってしまったので、二つに分割します。 ――――――― 「大胆な冒険者よ、七月一日のまえにスカルタリスの影が愛撫しにやってくるスネッフェルスのヨクルの火口のなかに降りよ、そうすれば地球の中心にたどり着くだろう。それはわたしが成したことだ。」 オットー・リーデンブロック教授は、ルーン文字の暗号に隠されたアルネ・サクヌッセンムのこのメッセージを読み取ったことをきっかけに、嫌々連れてこられた甥のアクセル、勇敢で寡黙かつ冷静沈着な案内人のハンスと共に地球内部への旅を始める。 ジュール・ヴェルヌ「地底旅行」は、そのような物語だ(物語自体はアクセルの一人称視点で進行する) ――――――― 未知の場所へ進み、足を踏み入れ、調査しようという考えを見る時。我々が真っ先に思い浮かぶのはいわゆる「大航海時代」ではないだろうか。 元々……この大航海時代というものは、イスラム勢力の戦いで劣勢に立たされていたヨーロッパのキリスト教勢力が、東方に強大なキリスト教君主「プレスター・ジョン」なる者の帝国が存在しているという情報を得たことがそもそもの始まりであったといわれる。この君主と同盟を結べばイスラムに対抗できると考えたのだ。 やがて探検が進むうちに、それまでヨーロッパ人の知らなかった地理上の発見が相次ぐようになる。そして香辛料貿易も活発化する。未知の地に植民地を建設する。 けれども時代が下っていくと、最終的にはジェームズ・クックに代表される、科学的航海による地理上の様々な事実の観測が行われるようになっていった。 それ以前には、ヨーロッパ人の間には「未知の南方大陸」「未知の領域」と呼ばれる地が遥か南方に存在するという伝説があったが、クックの航海はそんな幻想を打ち砕いた。 そんな物は存在しない。幻想だった。何人もの探検家が探し回った南方大陸とはそんな物だった。 その事実は、「探検」という事業それ自体が「冒険」から「科学的調査」にとって代わられようとしている様子を如実に表している。伝説を伝説のまま信じ続け、その産物を血眼になって探し回る時代は終わりを告げようとしていたのである。 ――――――― 「地底旅行」の物語は、冒頭で「1863年」と明記されている。 1863年は19世紀であるが、言うまでも無く19世紀とは産業革命を初め、科学技術が人類史上稀に見る大発展を遂げた時代だ。時代は科学を万能の術として捉えていただろうし、今現在よりももっともっと優れた世界が築かれると信じられていただろう。 少なくとも、19世紀とは科学・技術がもたらす進歩発展に限りない可能性を見出そうとしていた、そのような時代だったのではないだろうか。 物語の中においては、地球の核についての事柄が議論の的になっているのが描かれている。地球内部は高熱であると唱える派に対してリーデンブロック教授が唱えたのはその逆、熱が存在しないと言う考えであった。教授は言う。「内部の高熱説は全然証明されてなどいない。」 彼は続いて「いずれにしても行ってみればわかるだろう」と唱えるのである。「アルヌ・サクヌッセンムと同じように、わしらもこの大問題についてどう考えればいいか知ることができるのだ」と。これこそは科学的航海のような、迷信や伝説に左右される事の無い視点であるようには言えないだろうか。 しかしこの時点では地球の内部が高熱と唱える派も、またリーデンブロック教授の派も、いずれもが仮説でしかない。 これは言うなれば(相当に乱暴な話だとは思うが…)、「証明」という手順を踏んでいない段階では両者共に神話や伝説・伝承の類と変わることがないのではないだろうか? 共に両者の正当性を証明すべく、賢明に理論の組み立てを行っていても、実際にその様子が見られない、証明できない限りはやはり神話的なのだと考える。 そもそもこの科学における学派というものは、ある事柄に関してめいめいに考えた、もっとも「合理的」な事柄を信奉する科学者達の集まりだ。 この「合理的」という事は科学だけの特権でなく、文字通りの神々の物語である神話にも当てはまる。未だ科学が未発達な時代、人々はただ見ただけでは全く理解できない不条理な現象に対し、何とかして理解すべく、説明を行うべく知恵を絞った。 その所産こそが神話や伝説であり、古代の人々は世界の創生と破滅・人間や動物の生き死にといった非常に大きな物から、何故あの草は赤いのか、どうして別の人種の肌はあんな色をしているのか、といった現代人である我々から見れば些細とも思える事柄まで「神話」「伝説」という枠組みの中で、精一杯「合理的」な解釈を行ってきたのではなかったか。 そして、それは心底から信仰している間はあくまでその枠組みの中では最も合理的な解釈である事には違いが無いけれども、結局その証拠を直接目にする事は、想像上の産物である故に、やはり不可能なのである。 つまり、科学におけるある事柄の仮説とは、何らかの手段によって実証されない限りは神々の姿を想像しないだけの「神話」「伝説」へと容易に変転し得るのではないか……という事だ。 実証という手続きを得ないままのそうした神話がある時代において人々に支持されて「信憑性」の衣を獲得した場合、それは「常識」と姿を変える。 だが、その常識に対立する別の神話が誕生した場合、あるいはかつての常識を根本から覆すだけの大きな信憑性を秘めた新たな神話が発生すると、より古い時代の神話はやがて「迷信」と呼ばれて消え去る道を辿るのである。 リーデンブロック一行が探検に出発して地球内部の様子を観察するより以前は、先ほどのように表現するならば「相反する二つの神話が並び立っている」状況である。 そのどちらもまだ「信憑性」の衣に完全な形で覆われているとは言い難く、仮説なので実証も行われてはいない。 この、どちらの学派の存立基盤も未だあやふやな状況にあって、リーデンブロック教授は偶然に手に入れたサクヌッセンムのメッセージを元にして、いよいよ地底探検へと旅立つのである。 「神話」が「信憑性」の衣を纏って眼前に現れるのか。それとも、どちらもただの伝説で、もっと違う真実が隠されていたのか。 ――――――― 結論から言えば、リーデンブロック教授の説は「当たらずとも遠からず」といった所ではないだろうか。一行は途中で度重なるアクシデントに見舞われて、結局地球の中心部に至る事ができなかった。それでも、彼らが目にした物は通常我々が知悉している「常識」に真っ向から異を唱える物に他ならなかった。 地球の内部には、広大な海があったのである。そこには巨大なキノコ、化石でしかお目にかかったことの無い古代の生物、さらには謎めいた巨人など、度肝を抜かれるような多くの現象があった。 地球の中心へとたどり着く事に失敗した以上、並び立つ二つの神話の、そのどちらにより信憑性があったのか……というそもそもの疑問はやはり謎のままなのだ。 しかし、これだけは確かではないかと思う。 彼らは「常識」という一つの神話を打ち砕いた。 地上に住まう人々のいったい誰が、地面の下の広大な海に思いを馳せよう? 地上に住まう人々のいったい誰が、巨大生物同士の死闘に震え上がろう? 地上に住まう人々のいったい誰が、地下世界の存在を信じていよう? ジェームズ・クックの科学的航海が、ヨーロッパ人の間において紀元前の昔から(!)固く信じられていた南方大陸の考えを幻想に過ぎないと明らかにしたように、リーデンブロック教授・アクセル・そしてハンスの3人の探検は、通常一般の世界で認識されている常識を打ち砕いたのである。 続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.14 14:39:08
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|