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tartaros  ―タルタロス―

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こうず2608

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2008.08.14
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カテゴリ:読書
前半はこちらです。

―――――――


 それにしても……我々は何かと言うと一口に「常識」という言葉が口をついて出てくるが、この常識なるモノは、実は非常に曖昧な概念なのではないだろうか。
 例えば、日本人の大半は犬を喰わない。その観念は常識と言ってもいい。日本の食文化の中に犬という存在は無いからだ。けれども、中国や朝鮮半島には犬食の文化が存在している。日本人が「有り得ない」と思っていることが、海一つ隔てた隣国には存在しているのである。
 もう一つ別の例を挙げよう。
 ポルトガル人のアルヴィーゼ・ダ・カダモストという人物は、西アフリカを探検して現地人に出会った。その時に現地人はカダモストの肌が白い事に驚いて、彼の肌には色が塗ってあると思い込み、カダモストの腕に唾を塗ってこすったという。

 このエピソードは、通常我々が抱いている「常識」が、いかに曖昧であやふやなモノであるかをよく物語っているような気がする。
 「常識」とは多くの場合、その共同体の中において最も多くの人々に共有されている観念を基にして造り上げられる。その中から外れた・外れている「非常識」は、時には忌避される対象ともなるが、それが突飛であればあるほど人々の意識から切り離されて顧みられる事が少なくなっていく。
 しかし、この常識の発生過程とはある一つの共同体で設定されたものである以上、別の共同体では全く別の「常識」が発生しているという事も十分に予測できる。……もっともそれは、非常に狭い共同体の住人である我々が別の世界や、ひいてはそこに存在するであろう共同体に思いを馳せる事が可能であるのが大前提だ。
 そもそもが「別の世界」など存在しないという考えに拠って、共同体内部の住人である我々が常識を構築していく時、前提となっている考えそれ自体が既に常識と化しているために、その強固な殻を打ち破るのは非常に難しいと言わざるを得ないだろう。

 果たして誰が、別の世界が存在しないという納得できる証拠を人々に提供したというのであろう?
 地下世界など有り得ないと思い込んでいた、すっかり意識の端から消え去っていた。その「常識」が、やはり一種の「神話」でしかなったという事実を、リーデンブロック教授は証明して見せたのである。

―――――――

 けれどもリーデンブロック教授やアクセルは、地下に広がる未知の世界をいかに解釈したか。

「『ああ、運命はわしをこのような、ペテンにかけおった!』と、伯父は叫んだ。『自然の力が共謀してわしに逆らい、風も、火も、水も、すべてがぐるになって、わしのわしの行く手を阻もうとする! 結構ではないか! わしの意思がどれほどのものか、思い知らせてやろう。わしは負けん、一歩も引きはせん。最後に勝つのが人間か自然か、今にわからせてやるぞ!』」

「わたしたちがこれまで見てきた現象を説明するこうした理論は、わたしには理解できるものと思われた。自然界の脅威がどれほど不思議なものであっても、それは必ず物理の法則によって説明できるものなのだ。」

 彼らは、あくまで「科学」という枠組みの中でこの地下世界を解釈しようと懸命に試みている。科学の発達した19世紀、目の前に広がる見たことの無い景色・現象を説明するのに最も適したものは宗教ではない。「科学」である。科学が、その時点で最も合理的な考えであるから(そもそもリーデンブロック教授は地質学者なので当然だが)こその思考であろう。
 だが繰り返すが、この科学というものも、証明されない限りは一種の「神話」である。現在のところ、地下世界を実際に目にして科学的解釈を試みているのはリーデンブロック教授とアクセルの二人だけだ。彼らはジェームズ・クックのように実地で議論の的になっている物を確認している。確かにそれはある一つの「常識」=「神話」を崩壊させてはいる。
 しかし彼らだけがそこでの現象を解釈しようと試み、さらにその科学という思考の万能性を信じるという行動は、たとえそれが最先端の合理的思考を用いたものだったとしても、新たな神話を書き連ねようとしているようにも思われる。

 実にこの点に、本作品が執筆された19世紀という時代が反映されているのではないだろうか。
 科学技術の発展が約束する輝かしい未来を信じていた時代における人々は、「科学」という思考それ自体に対して、あらゆる現象を解釈する事が可能な万能の道具だという思いを抱いていたのかもしれない。19世紀の世界では、科学こそ宗教に勝る新たなる思考のツールだったのだ。
 けれどもそんな思考こそ現代人である我々から見れば、まさしく「神話的」であると言えるだろう。
 科学・技術の発展は確かに人類文明に巨大な恩恵を与え、文明に長足の進歩を遂げさせた。しかしその反面、戦争で使用される兵器の威力は飛躍的に向上し、昔では考えられないような悲惨な戦闘が行われるようになった。環境汚染もまた深刻であり、世界各国で対策が叫ばれながら、実情はむしろ悪化の一途を辿っている。

 宗教に拠る解釈というかつての「常識」が科学の台頭によって「神話」であった事が明らかなとなり、「迷信」の世界へと半ば追いやられてしまったように、科学が全てを合理的に解釈して解決させ、進歩させるという考えも、現代では信憑性の衣が少しずつ剥がれかけていると言わざるを無い。科学は今はまだ最も合理的な思考方法という玉座に座してはいるが、もし仮に科学を超える新たなる神話が現れた時……もしかしたら科学は、合理性の玉座から追い落とされてしまうのかもしれない。
 しかし繰り返すが、19世紀とはまだ科学の有効性が多くの支持を受けていた時代だった。リーデンブロック教授やアクセルたちも、そうした考えの持ち主だったのだろう。
宗教に取って代わった科学という名の新たなる「神話」が、まだ確固たる「常識」としての地位を保っていた時代が19世紀であり、その常識に拠る、未来の輝かしい展望への強い願いの一つの産物である物語。

それが、この「地底旅行」という作品だったのではないだろうか……と、愚考する次第である。





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Last updated  2008.08.14 14:45:24
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