|
カテゴリ:読書
読書会参加の読書。
H・G・ウェルズ「宇宙戦争」(斉藤伯好訳・ハヤカワ文庫)を再々読。 ――――――― 「ある日、宇宙の彼方から侵略者がやって来る」……そんな、現在では数多くの娯楽作品でお馴染みとも言えるストーリー上の基本フォーマットがある。 大雑把に言ってしまえば「宇宙戦争」もまたそのような物語だが、後続の作品とは明らかに一線を画しているように思われる。 言うまでも無く武力による侵略とは、される側にとっては急迫不正の恐るべき侵害行為である。その行為をする側(=侵略する側)にとってどのような事情があろうとも、侵略される側は故郷を破壊され、人命を奪われる不当な攻撃に憤りを感じざるを得ない。 すると、人々は何とかして侵略者を撥ね退けようと、自分たちの故郷を取り戻そうして抵抗を始めるだろう。 そこには、「悪」に立ち向かおうとするヒロイックな意識が働いている。まだまだ戦意の盛んな間は故郷を解放する戦いに参加できるかどうかは関係なく、被侵略者側の多くの人々がそうした考えを抱いているのではないだろうか。 そして、その意識が具現化された姿が「英雄」や「ヒーロー」という存在だろう。彼らの来歴はどうあれ、侵略者から地球を救おうとする行為は人々のヒロイック志向な意識の表出であり、また彼らはその体現者である。人々は自分一人では叶わぬ「正義」という理想を、彼らに仮託しているのだ。 しかし、本作「宇宙戦争」が他の作品と趣を異にしているのはまさにその「英雄」「ヒーロー」という点において……ではないだろうか。 この物語は、人類の危機を救うほどの英雄もヒーローも存在しない。 哀れな地球人類は、想像を遥かに越えた科学力と軍事力を持つ火星人の食料に過ぎないのだ。圧倒的な破壊と暴虐の嵐は、ヒーロー幻想など木っ端微塵に、それこそ容易く打ち砕いてしまう。 抗すべくもない大きな災厄が襲いかかって来た時、ちっぽけな人間にできるのは、ただ祈って逃げ惑うという事だけかもしれない。あまりにも巨大すぎる抵抗しようの無い災いを目の当たりにした時、人はただ沈黙するだけなのだ。そこにヒーローという存在が入り込める余地など有りはしない。ある作家の回顧録という形式をとって語られる本作は、そのことをまざまざと思い知らされる。 主人公である「私」は終始、恐るべき火星人から逃げ惑い、殺されまいとしている善良な市民である。火星人に殺された人々を実際に目にしてしまったから仕方が無いとも言えるが、非常時における人間の意識は平時とはまるっきり違ってしまう。 「火星人襲来」という事実をよく考えてみると、これは一種の「天災」だ。それも未曾有の大きな天災だ。人間には、その恐ろしい天災に抵抗する事は非常に難しい。そして意識の変化が始まる。ただ生存したいと考えるが故に。災禍が他人事である間はまだ平穏である。所詮は他人事であるから、傍観者でいられるのだ。 だが、いざ自分が当事者になってみると皆、先を争って恐怖から逃れようとする。金や食料の略奪が起こる。逃れるべき恐怖の形がまだはっきりと解らない時はそれすらも商売になり得てしまう。「情報を売る」という事は災害時には非常に大きな利益になるであろう。そして情報を求める人々の間には風説が流布される。根拠無き噂話、不安を煽る噂話、希望を語る噂話。それらは例外なく被災者の恐怖に端を発するものであり、多くの情報を得て安心したい、これからの見通しを立てたいという欲求の表れなのだ。 結局のところ誰もが生存の意思を最優先させるのに必死で、「火星人襲来」という天災に立ち向かうことはできない。人々を糾合して、あるいは人々に代わって悪を討つ絶対的なヒーローが現れる事は無かったのだ。 もちろん軍隊は火星人に戦いを挑むし、志願兵が居たという描写もある。だが、儚い英雄的意識はもろくも崩れ去り、人々はヒーローを求める事もなく、なろうとも思わずに逃げ回る事しかできはしない。 けれども、「英雄」「ヒーロー」を求める思いが全く消滅してしまった訳でもないのである。「私」が出会った兵士は、火星人と戦うための遠大・壮大な計画を話していた。その姿はまさしく英雄にも見えるが、後に「私」が悟ってしまったように、この兵士は「口先だけで、結局は何一つ実行に移そうとしない。」 彼が抱いていたのは「理想」ではなく、英雄という存在への「憧れ」であろう。憎き火星人どもを蹴散らしたい、人類を解放したい。ただ逃げ惑うだけの人々の中にあって、兵士は明らかに異質に見える。だが、その本質はやはり災害への抵抗をしないで逃げ惑っているだけに過ぎないのではないか? 彼のいう計画とやらは、あるいは、火星人への恐怖感の裏返しであるのかもしれない。反発する思考を繰り返すだけで行動しないのであれば、それはもはや自慰でしかなくなる。 おぼろげな憧れの中からヒーローは誕生しない。言うは易く行うは難しとは、よくも言ったものである。そこにあるのは「こうだったら良い」という単なる願望なのだ。 侵略者から逃げ惑う哀れな人々が、自らの希望を仮託できるだけの大きな存在を求めた結果が「英雄」「ヒーロー」だ。しかし、あまりにも絶望的な状況を潜り抜けて、自らが生きる事にしかエネルギーを傾けられなかった人々の中では、正義を追求する英雄やヒーローが生まれる事は稀であるように思われる。最悪の場合、唯々諾々と災厄に飲み込まれて沈黙を続けるのみ。 英雄は眼前の悪への静かな絶望からではなく、失われた正義への活発な希望から生まれるものではないだろうか。そして、先の兵士のようにたった一人で夢想するのでもなく、弱くばらついた散発的な人々の希望でもなく、人々が真に心から強く強く暴虐からの解放を、悪の打倒を、正義の実現を希求する時。 その時こそ英雄という、たった一人では巨大な悪に立ち向かえないほどちっぽけな人々が、希望を仮託するに足る存在が出現するのかもしれない。 逃げ回るしかできなかった「私」の視点から語られる「宇宙戦争」という物語は、自らの生命を最優先せざるを得ない人間たちの、英雄を求める事すら許されない極限の状況を描いている。「利己」に陥らざるを得なかった人々の間からは「利他」の体現者である英雄は生まれない。 そのように、今回は読んだ。 ――――――― 追記 実際に火星人を倒したのは人類ではなく、この地球上に存在する細菌や微生物だった。彼らこそは人類を滅亡から救った大恩人だ。けれども、彼らをこの記事の定義に当て嵌めて考えてみると、決して「英雄」や「ヒーロー」ではないという事にになる。 何故なら、彼らは自分たちの生活上ごく当たり前の営みを行っただけで、その結果が偶然にも火星人全滅という事態を引き起こしたに過ぎないからだ。 英雄とはある種の自己犠牲的な精神を持った者でなければそうは呼ばれず、細菌や微生物のように自分たちのごく普通を行った場合は、人々からはそのような認識を受けないのかもしれないとも思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[読書] カテゴリの最新記事
|