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マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 (大塚久雄訳・岩波文庫)
非常に面白い論考だと思います。 同時に、非常に難しくもある。 なので半分も理解できてはいないと思うが…。 最後まで読むにはかなりの根気が居るような気がする。 しかもこの本、著者であるウェーバーの長大な「比較宗教社会学」研究の出発点である。 シリーズ物の作品に例えるならば、いわば「第一巻」に当たるといったところか。 ――――――― 「労働」「働く」とは何であろうか。 それは言うまでもなく労働力を提供して対価としての賃金を受け取り、日々の糧を得るための行為だ。現実の世界においては、不当なな手段で強制されたものでない限りは大方そのような物だと思う。刺身の上にタンポポを乗せるような単純極まりない仕事でも生きて行くために必要なものである。 山の頂上まで岩を転がしていく作業を永遠に続けざるを得ないような、そんなどこかで聞いたような徒労とは違うのではないだろうか。 では、その「働く」という行為はどのように捉えられてきたのだろうか。 その昔、雇用者は労働者により多くの労働力を提供させるために「働いた時間に比例して賃金が増えていく」システムを採用した。同時に一定時間当たりの賃金を底上げした。 しかし、労働者たちは長時間働いてより多くの賃金を得ようとはせず、今までよりも少ない労働時間で、今までと同じ賃金をもらうようになったという。 現代人である我々からは到底考えられないような話だが、彼らは営利目的の蓄財に邁進するよな道を選ばなかったのだ。 加えて、中世ヨーロッパの価値観はキリスト教カトリシズムに基づいている。スコラ哲学者のトマス・アクィナスは労働もまた大切な行為だが、それはあくまで「世俗の事柄」であり、神を賛美する手段ではないと考えていたのだ。 つまるところ、プロテスタンティズム誕生以前の「労働」観とはそのような物であった。神を賛美するという目的において労働は、俗な行為だったのだ。 しかし、プロテスタンティズムの勃興によってこの価値観は一変したのだという。 ルターは労働もまた人々が神を賛美するための一手段であるとした。しかし彼の場合、未だ中世的な価値観からは完全な脱却を見ていない。 では、何によって、であるのか。それはカルヴァンの唱えた「予定説」に拠る所が大きい。 「予定説」とは、「救済される人間はあらかじめ神によって決められている」という思想である。この考えの下では人間の行う活動は救済に与るだけの意味を持ち得ない。あらかじめ決められているという事は、身も蓋もない言い方が許されるのであれば人間の活動など無意味だという事だろう。そもそも、神という非常に大きな存在は人間には推し量れない。だから誰が救済されるのかも判らない。そこに人々は不安を感じた。 だが、このように考えたのだ。 「労働によって救済されるという確信を得よう!」 労働によってこそ人々は自らが救済に与る事ができるのだ、という確信を得ようとした。 実にこの時が、非常に大きな価値転換をもたらしたとは言えないだろうか。 この「確信」こそが、予定説に基づく資本主義の精神の端緒かもしれない。 こうして「労働」へと宗教的な重要度の高い意味付けが成されたのだ。 また、プロテスタンティズムにおいてはあらゆる事柄が合理化されている。 カトリックにおける秘蹟は救済に関係ないので禁止(ウェーバーはこれを魔術からの解放と呼んでいる)、休息や娯楽も次なる労働への活力を見出すもの以外は排斥の対象となった。神の栄光を地上に表すためならば転職も許された。 まさに生活の全てが、神のために合理化の道を歩まされていたのである。 加えて営利追求と蓄財における考えも特徴的だ。 神のための労働で得た物財は、神から賜った正当な報酬だと言うのである。金という存在それ自体は欲望を起こさせるような危険なものだが、自らの欲のために使用しないのなら蓄財も可能。 この「世俗内的禁欲」という思想の下では、むしろ貧乏である事は時として批判の対象であった。貧乏である事それ自体は悪ではない。しかし、労働における神からの賜り物を受け取ろうとせず、いつまでも貧乏なままでいようとするのは「怠けている」と。 ――――――― こうした強力な宗教運動が経済的発展に対してもった意義は、何よりもまず、その禁欲的な“教育”作用にあったのだが、ウェズリーがここで言っているとおり、それが“経済への”影響力を全面的に表すにいたったのは、通例は“純粋に”宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき(中略)、安楽な市民生活のための一つの手段とされてしまうほかはなかった。 (2 禁欲と資本主義精神 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理 355~356p) けれども、時代は移った。 次第に信仰は人々の心から薄れ、手段は目的へと変わっていったのだった。 すなわち、宗教によって裏付けられた労働による営利追求と蓄財を是とする思想から、丹順に営利追求を目指す思想――「資本主義」の誕生だった。 ウェーバーは、こうして誕生した資本主義を次のように呼んでいる。 ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する「冒険商人」的資本主義の側に立つものであって、そのエートスは、一言にしていえば、“賤民(パーリヤ)”的資本主義のそれだったのに対して、ピューリタニズムの担うエートスは、合理的・市民的な“経営”と、“労働”の合理的組織のそれだった。 (2 禁欲と資本主義精神 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理 320~321p) 営利追求を良しとしない禁欲的な思想が営利追求を是とする思想を生み出したというのは何とも皮肉な話だが、結果的にはその偶然(?)こそが近代的な経済を形作る一つの理由となった。 果たしてプロテスタンティストたちが労働によってその栄光を賛美していた神がもしも本当に居るのであれば……いったいどんな気持ちで、この奇妙な歴史を眺めているだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.09.03 23:24:36
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