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カテゴリ:読書
「私」というものは不思議なものである。誰もがまるで自明のこととして「私」という言葉を用いているが、われわれはどれほど「私」を知っているだろうか。
インドの説話に次のような話がある。ある旅人が空家で一夜をあかしていると、一匹の鬼が死骸を担いでそこへやってくる。そこへもう一匹の鬼がきて死骸の取りあいになるが、いったいどちらのものなのかを聞いてみようと、旅人に尋ねかける。旅人は恐ろしかったが仕方なく、前の鬼が担いできたと言うと、あとの鬼が怒って旅人の手を引きぬいて床に投げつけた。前の鬼は同情して死骸の手を持ってきて代りにつけてくれた。あとの鬼は怒って脚をぬくと、また前の鬼が死骸の足をくっつける。このようにして旅人と死骸の体とがすっかり入れ代わってしまった。二匹の鬼はそこで争いをやめて、死骸を半分ずつ喰って出ていってしまった。驚いたのは旅人である。今ここに生きている自分は、いったいほんとうの自分であろうかと考え出すとわけがわからなくなってしまうのである。 河合隼雄「無意識の構造」(中公新書) ――――――― 小林泰三の短編SFホラー「人獣細工」を思い出してしまった。「玩具修理者」の方でもいいけど。それどころか手塚治虫「火の鳥」でもいいんだけど。 たしかマイクル・シャーマーも「人はなぜニセ科学を信じるのか」中で同じような問題提起をしていたような気がする。 こういう自分が「人間」であるという根拠無き自身に揺さぶりをかけようとする展開や発想ってSF的なものだと思ってたんだけど、その源流は意外と古いのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.09.08 22:21:04
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