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tartaros  ―タルタロス―

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こうず2608

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2008.09.09
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カテゴリ:読書
とりあえず俺の読書スピードが異常に遅いのは、いわゆる「頭の中で音読」をやってしまっているからだろうと思う。
だったらやめればいいハズだけれども、もう子供の頃からの癖になっているので直しようがない。

今さら直す気も無いけど。


―――――――


夢野久作「夢野久作全集4」をようやく読み始めた。

一番最初に収められているのは「いなか、の、じけん」
改めて読んでみると特異な連作掌編だと思う。
前半は笑い話、後半は陰惨な恐ろしい話が多くなっているのだが、そのいずれもがただひたすらに「淡々と」描写されているような印象を受ける。
読者の感情に大きく訴えるような文章上の表現をせずに、淡々と。
笑い話も恐怖譚もだ。
その、まるで何かの記録を読んでいるかのような感覚は、いくら読んでも何処とも知れぬ「いなか、の、じけん」であって、全体に靄がかかったような奇妙なものなのだ。

無機的な描写がどこか遠くの田舎の出来事である、という、一種の他人事感覚を喚起する。
敢えて感情移入を許さない表現をする事によって、読者は完全な傍観者として、まるで「伝聞」であるかのように物語を視る。

まるで「××でこんな事があったんだよ」と下世話な噂話を取り交わすように。


……なお現在では削除されているが、この作品が世に出た時、冒頭には「ここに書かれている話は全て事実です」という旨の文章が存在したという。


―――――――


マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、プロテスタンティズム、とりわけカルヴィニズムにおける予定説の教義こそが現世における労働に大きな意味合いを付与したのだという。
予定説においては、神の意思ではいったい誰が救済されるのか見当もつかないので、現世の禁欲的労働に精を出すことによって神を賛美し、自らが救済されるのだという確信を人々は欲した。
つまり宗教の存在が、労働という人間が生存する上で必要欠くべからざる行為に思想的バックボーンを与えたという訳なのだろう。

が、信仰が薄れ、そうした過去の遺産である資本主義が台頭している現在においては「労働」とは何であろう。
我々は労働に何らかの意味を見出し得るか。
日々の糧を得るため……というのはプロテスタンティズム誕生以前から判り切っていた理由だ。「進んで労働に邁進したい」という心性に至るには、労働という行為それ自体に生活上の必要性を上回る価値観を与える必要が生じて来るのではないだろうか。
もともとの労働の目的だった「営利の追求」というカルヴィニズムにおける手段が現在では目的へと変化している。その考えが既に常識として当たり前の価値観と化している以上、人々は改めてそれを意識するまでも無い。だから、労働を通じて何の目的を達成したいのか、と考えなければならない。

宗教の権威が昔ほど強くはない今、社会全体を貫く共通の価値観において労働を繰り返す事は非常に難しいのかもしれない。多くの人々が一つの大きな目的(たとえば戦争とか、経済発展とか)に向かって心を一つにする事が出来れば、労働には宗教を超えた新しい価値観が生まれるかもしれないが、そうでない時は?

おそらく、それはもう社会全体が担うべき思想ではなく「個人」が考えるべき事なのではないだろうか。
だからこそ中学・高校の職業教育で、かつて少年少女だった俺たちは、

「あなたは何のために働くのか?」

という問いを投げ掛けられたのだ。


そして今、職業とは一種の「自己実現」の手段と位置付けられることが多いようだ。
なるほど労働の目的を個人のレベルに限定した場合、それこそが労働に励む最も合理的なものであるのかもしれない。


では、希望通りの職に就けなかった人々は?
職にすら就けず、自己実現という目的意識を顧みる事などできるはずも無く日々の飯にも事欠く人々は?
それどころか働く事それ自体を厭う類の人々は?

彼らは労働の目的を持たず、あるいは持てず、世間の荒波に揉まれながら燻ぶるしか無いのだろうか。

宗教的権威が減退し、労働の目的が巨大な社会的価値観から個人レベルにまで縮小された時、働くという事に「生活する」という事以上の意味を見出すのは非常に難しい。
個人が心の中に「神のため」に代わる新たな目的意識を芽生えさせなければならないのだ。
「神」は果たして「○○」か、それとも「××」に代わるのか。

もはや個々人の心の中の問題に、俺が立ち入る事は叶わない。


―――――――


いや、明日学校で適職判断試験があるっていうから、何となく……。








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Last updated  2008.09.09 23:15:38
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