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カテゴリ:読書
たまにはブームに乗ってみようかな…と。
小林多喜二「蟹工船」(新潮文庫・『蟹工船・党生活者』収録)読了。 大体の粗筋は読む前に既に知っていてんだが……実際に読んでみると文章そのものは少々読み辛いながらも鬼気迫るものがある。 ロクに風呂にも入れず悪臭漂う船内、不潔な体に湧く蚤や虱、大時化でもお構い無しの無茶な操業、逆らおうものなら容赦なく殴りつける監督、病を患って無念に死んでいく人々。 まともな感覚を持っている者ならどう考えても「これはおかしい」と思うはずだ。「この労働はおかしい」のだと。 しかし、物語の舞台となっている蟹工船「博光丸」では、そのまともな感覚の方がもはや異常と決め付けられている。非人道的な労働形態も、労働者に加えられる不当な暴力も、全ては「国富」という美名の元に正当化されているのだ。そこでは娯楽のための活動写真までもが漁夫たちに労働の正当性を擦り込むための道具でしかない。 そして船長も船医も、果ては国民を守るべき軍隊までも味方にはなってくれないと気が付いた時、漁夫たちはついに団結してこの不当に立ち向かう。 何というべきか、この物語に読者を半ば陶酔へと誘うほどのダイナミズムを与えているのは「思想」という点がほとんど描かれていないという事なのではないだろうか。 もちろん、「蟹工船」は「プロレタリアート文学」というくくりの中に入っている作品であるから、左翼思想に基づいて執筆されたものであるのは確かだろう。 けれども作品中で語られているのはそのほとんどがあくまで「不当な労働の打倒」であって、理想社会が云々とか階級闘争が××という小難しい話は……全く存在しない訳ではないけれども、意外なほど描かれていない。 思うに、こうした正義が悪を打倒するという構図の物語は、無闇に専門的な思想を描写してしまうと「説教臭く」なってしまうのではないか。 確かに、もしも「蟹工船」で詳細な左翼思想が語られて、尚且つそれが漁夫たちに受け入れられていたとしたら、彼らのストライキにはより強固な精神的支えが生まれていたかもしれない。 しかし、そうなるともはや彼らの目的は「思想のための運動」でしかなくなる。 雇用者に不当な労働を強いられていた彼らが求めたのは、当たり前の労働をして当たり前の対価が欲しいという、ただそれだけの素朴な願いが大半だったように思えるのだ。 だからこそ一度はストライキが失敗に終わってあれほどまでに叩きつけられても、彼らは復活したのではないかと感じられる。 だから、そこに詳細な左翼思想が根付く事は無い。 もちろん状況的には確固と根を張っていてもおかしくはないのだが、元々が「現在の酷い状況を何とかして打開したい」という単純な願いだ。それを叶える為の手段が「ストライキ」だったのであり、やはり思想が一番先に立っているというのではない。もしも漁夫たちに左翼思想が完全に根付くとしてもずっと後になるに違いない。 考えてみれば圧迫された閉塞的な社会状況を打開へと導くのは、一部の頭の良い人々や教養ある人々の唱える難解な「思想」ではなく、名も無き無知な大衆の発する「欲求」のエネルギーではないだろうか。 思想は確かに大衆の行動に明確な論理性・そして何より正当性を付加するものだ。しかし、それすらを凌駕する物こそ大衆が持つ「酷い状況を何とかしたい」「これはどう考えてもおかしい」という欲求であり、正しい事・当たり前の事が正しく・当たり前に行われるべきという素朴で単純な願いだろう。 そこにこそ不当を打破する事のできる強靭なダイナミズムが誕生し、さらに飛躍するのなら現行の腐敗した社会体制というシステムを根本からひっくり返して「天命ヲ革ム」……革命へすら繋がるのだ。 (左翼思想そのものの是非はともかくとして)教養ある者と無知な者に関わりなく正義に対する欲求こそが悪と不当を打破する直接の動機となり、思想はそれを手助けする推進力としての役割を果たすのではないか。 的外れかもしれないが、さらに言うなら思想そのものが欲求を反映して生まれる場合も有り得るようにも思われる。 しかし、それにしても現代の日本で「蟹工船」「女工哀史」あたりに激烈な共感を覚える人って、世間的にはどんな風に思われるんだろうか?(別に俺がそういう人という訳じゃないです) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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