|
カテゴリ:読書
アントニイ・バージェス「時計じかけのオレンジ 完全版」(乾信一郎訳・ハヤカワepi文庫)読了。 (画像と本文は全く関係無い。無いったら無い。) 自由意思の剥奪による犯罪の抑制は、もっとも合理的な方法であるかもしれない。 「みなさまのつつましき語り手」こと主人公の少年・アレックスは強盗・レイプ・暴力・殺人など、ありとあらゆる犯罪に手を染めて逮捕され、新開発の犯罪者矯正方法によって「善良」な人間となった。 たとえ、それが彼の意思そのものに反した強制的なものであってもだ。 アレックスは「時計じかけのオレンジ」と成り果てたのである。 教誨師はアレックスに対して「いったい神さまは何を望んでおられるのか? 神は、善良であることを望んでおられるのか、それとも善良であることの選択を望んでおられるのか? どうかして悪を選んだ人は、押しつけられた善を持っている人よりも、すぐれた人だろうか?」(p150)と語った。 おそらく、それは個人の心によって答えの異なる問いなのだろうと思う。 集団の秩序を維持するためには、人々が皆まさしく「善良」である事が言うまでも無く求められる。物語の舞台となっている全体主義国家はまさにそうだろうし、そのためのルドビコ療法なのだ。 この物語における「自由意思か否か」の問題は、そのまま性善説と性悪説の対比として見る事も可能ではないだろうか。善を選び取る能力に期待するというのはそのまま性善説だし、ルドビコ療法で暴力的な事柄に嫌悪の反応を喚起するよう仕向けるというのは、犯罪者の本質を悪だと定義して、無理矢理に善良さへと仕向ける行為だ。 集団秩序を乱す者に対しては隔離だけでは足らぬ、意思決定権を剥奪して強制的な同化を課すというのは、人道を無視しさえすればやはりもっとも合理的な方法であると言えるだろう。 しかし、「善良にされた」アレックスと「善良である」人々の間の境とは何なのであろうか? アレックスを反政府活動に利用しようと目論む思想家たちは、ある意味では彼らの方が悪人であるようにも感じられる。 だが、集団というものが個人の集合である以上、同化を仕向けられた個人そのものの感情がそれを受け入れる事は不可能なのかもしれない。 アレックスは暴力衝動と、それを嫌悪する肉体的反応の板挟みとなって自殺未遂に走ってしまう。何とか一命をとりとめると、彼はもう、あのルドビコ療法の効果からは全く解放されていたのである。 彼はかつての仲間と偶然再会し、自分も暴力から足を洗って所帯を持った方が良いだろうと考え始めた。 暴力を消し去るための別種の暴力による、自由意思の剥奪を行うまでも無かったのしれない。 彼は、大人になったのだ。子供から大人への成長によって、新たな自由意思を獲得した。子供じみた暴力の世界からはもう脱皮したのである。 何もせずともいつの間にか社会集団への帰属こそが行われる、大人になるとはそういう事なのではないだろうか。自由意思によって子供の世界に決別する決意をしたアレックスは、それこそ本当の自由人で、時計じかけのオレンジとは社会集団であり、そこに所属する各個人が知らず知らずのうちになってしまっているものだ。 けれども、その自由人が集団の平和を時として乱しかねない時さえある。 そうした存在の自由意思が善か悪か。そのどちら側を選択するか判然としない以上は、生まれ出る不安と恐れが彼の自由意思の剥奪という選択肢を浮上させ続けるのではないだろうか。 人間の本性が善なのか、それとも悪なのか、それを真に見極める事は非常に難しい事なのだ。 だから、どれだけ時間がたっても、「自由意思の剥奪」という問いに容易に答えを出すのは昔い事であるように思われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.09.27 17:29:44
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|