|
カテゴリ:読書
トマス・モア「ユートピア」(平井正穂訳・岩波文庫)読了。
著者のトマス・モアと彼と知り合ったピーター・ジャイルズが、理想郷「ユートピア」からの帰還者ラファエル・ヒスロデイなる人物の語る話を記録した、という形式で進行する物語である。 タイトルにもなっている「ユートピア」とはモアによる造語であり、「どこにも無い」の意を持つという。 こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民、となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはないのである。(第一巻 p14~p15) さて、単刀直入に結論を言ってしまうと、現代人である我々から見た本書で語られているところの「ユートピア」観は、「ユートピア」では有り得ない。 むしろその逆、「ディストピア」と呼ぶことも可能な世界である。 ラファエルの語るユートピアは、その語るところによれば真に平等な理想国家である。 彼をしてそのように言わしめるのは、現実の世界において、富める者と貧しき者との間に非常に埋めがたい大きな溝が存在していたことが原因であろうことは想像に難くない。 彼は語る。「貧困が犯罪の原因である」と。なるほど確かに的を射た意見である。 一つの例を挙げてみよう。かつてのヨーロッパでは、傭兵を雇って戦争を行う事が普通だった。傭兵募集に応じたのは社会の貧困層や、自らを持て余す農家の次男・三男坊などであったが、彼らはひとたび人殺しを生業としてしまった以上、もはや元の村落共同体の構成員に戻る事もできず、ひたすら社会の底辺を這いずり回って他人の血に塗れながら、自分もいつ死ぬか判らない危険な傭兵稼業に身を落としていった。 しかも、戦争が終わると傭兵は失業する。失業中に何をして糊口をしのぐか? 答えは略奪や強盗などの犯罪行為である。彼らはかくも悲しい世界を生きていた。貧困が、彼らをそうさせた。 本書におけるユートピアは、貧富の格差の是正を大きな目的としているということが明確に読み取れる。 全ての都市は同様の建物と形をしており、人々はみな同じ衣類を着ている。私有財産制は否定され、そもそも貧富の差を生みだす最大の原因たる貨幣が存在していない。 そして、万民は必ず農業を行って生産活動に精を出すのだ。 一目で連想する事ができる。「共産主義」のようだ、と。 金銀は欲望を起こさせる卑しい金属とされ、色々なものを造る事ができる鉄こそが最上の金属とされている。精神活動においても全体性が存在する。信仰の自由は存在するものの、無神論者は刑罰を受けないまでも人々から軽蔑されるというのだ。 また、彼らは「健康」の状態をこそ「快楽」を生み出す最高の源泉と定義している。 この健康を生み出すための行為は、苦痛を遠ざけるための一時的快楽であり、真の快楽ではないのだという。 例えば、食事は快楽だが、それは飢餓から逃れるための一時的快楽に過ぎない。真の快楽は食事によって空腹が満たされて健康になった状態からもたらされるという具合だ。 この定義は、見様によっては危険な予感すら抱かせるのではないだろうか。確かに、健康は幸福だ。だが、そうでない者すべてを不幸だと考える事は、物事に対して一面的な見方しか提供しない・一面的な見方しか許されない全体主義的な社会の縮図を見ているような気分にさせられる。 その最たるものが病人に対する扱いであり、不治の病を患っている者に対しては「これ以上生きていても人間としての義務が果せるわけではないし、(中略)だからいっそのこと思い切ってこの苦しい病気と縁を切ったらどうかとすすめる。」つまりは、「尊厳死」である。 この理想郷では、全てが平等な国家繁栄のために使われているのであり、個人的な意思というものがあまり存在しない。 大きな貧富の差が存在している社会では、まずもってその格差を是正する事が大きな問題となろう。しかし、平等な国の秩序を維持し続けるするためには同時にある程度の均一化が必要とされるのかもしれない。 格差是正による平等社会には、一人の富める者も、あるいは貧しき者も在ってはならない。だから、全ての民が真に平等と言える世界を実現するためには、「平等」と言う名のシステムからはみ出した者は異物なのである。 その点を考えると、本書「ユートピア」はやはり未だ不平等が幅をきかせていた時代の産物、時代的限界・制約に縛られているのではないかとも思えるのである。 現代において、人間が生きる上での最終目的は「自己実現」にあるとよく言われる。 言いかえれば、個々人が自分なりの理想を持って、それを実現する事が最上等なのだ。 つまり、自己実現による「幸福」の形は人によって異なる。「違っている」ことに価値を見出す側面があるのかもしれない。 一方、「ユートピア」が語る理想国家においては、まずは「平等」である事が至上とされており、社会的な価値はすなわちそれを共有している。 すべてのものがあらゆる人に共有である国においては、共同の倉庫や貯蔵所に物資が豊富に貯えてある限り、個人の生活に必要な物資には何一つ事欠く心配はないのである。(中略)これほど豊かな生活がほかにあるであろうか。そうだ、彼らは自分自身はもちろん、自分の身内のもの、例えば妻や子孫や代々の後裔、の生活と幸福について心配する必要の全然ない国民なのだ。(第二巻 第九章 p176) 「幸福」さの形がある程度決まっている社会、加えてそれから逸脱することの許されない社会。トマス・モアの生きた時代と現代人の感覚では「時代の違い」と言ってしまえばそれまでだが、平等という人類共通の理想である美辞麗句の下、個人の意思が尊重されない世界は、それはやはりディストピア的なのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.12 23:54:29
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|