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カテゴリ:読書
実際、「こんな晩」の昔話の世界は、名前も明らかでない殺人者の家の親子間の“出来事”を描いているにすぎない。そこにはこの家族を取り巻いているはずの民俗社会の具体的状況が片鱗さえも描かれていないのである。話の仕組みはまことに単純である。単純であるということが昔話の本質なのだ。というのは、単純化することを通じて主題つまりメッセージの“純化”がはかられているからである。そうした純化を行うことによって、昔話は民俗社会の多くに通底している「異人観」をものの見事に描き出すことに成功するのである。それは、民俗社会の人々が「異人」を潜在的に怖れており、「異人」を虐待したならば神秘的制裁を受けるであろうと考えていた、ということを明らかにしている。
(小松和彦『異人論』p73~74) それにしても、民俗社会における「異人殺し」のフォークロアの存在意義とはなんあのであろうか。それはひとことで言えば、民俗社会内部の矛盾の辻褄合わせのために語り出されるものであって、「異人」に対する潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられているフォークロアである。「異人」とは民俗社会の人々から“しるしづけ”を賦与された者である。そして「異人」は社会のシステムを運営していくために、具体的行動のレヴェルでもその“暴力”と“排除”の“犠牲”にされていたわけである。つまり、民俗社会は外部の存在たる「異人」に対して門戸を閉ざして“交通”を拒絶しているのではなく、社会の“生命”を維持するために「異人」をいったん吸収したのちに、社会の外に吐き出すのである。しかもその結果として社会の内部にも“しるしづけ”を受けた家が、社会的な制裁を受けるような家が生み出されることさえあるわけである。もっとはっきり述べれば、民俗社会の内部の特定の家を“殺害”するために、その外部の存在たる「異人」が“殺害”されたのだといえるのではないだろうか。 (小松和彦 前掲書p89~90) 「メッセージの純化」が図られているのが昔話としての「異人殺し」ならば、そこに地理的な解説が全く加えられていないのも納得がいく。昔話は時として教訓を秘めているものだ。彼らが「異人」に対して怖れを抱いているのだとしたら、そうした外部からの存在に危害を加えることが、後に自らの身に降りかかるであろうしっぺ返しのそもそもの原因となるという認識を共有する事ができる。そして、そこに社会的制裁を課すべくして引きずり込まれた家の存在は必ずしも必要とは思えない。 多くの人々が共有する普遍的な、純化されたメッセージを伝えるのに特殊な地理的条件付けなどは必要ではないということなのだろうか。 と、なると、あの話はどのように考えればよいのだろう。あの話が「異人論」で採り上げられている民話と同様の構造を持っているのは有名な話だが、どちらかといえばあの話は形態の上では「昔話」に近いのではないだろうか。「こんな晩」に登場した異人の役回りがそのまま「子供」に受け継がれていると考えれば辻褄が合ってくる。 限定されたどこかの共同体でなくある家族関係において起こった話とされているのは、エピソードの普遍性を高める上で一役買っていると言えそうだ。だが、昔話と現代の怪談で根本的に異なるのは純化された「メッセージ」の有無である。昔話の方ではそこから某かの教訓を得ようと考えていた形跡が読み取れるが、怪談の方ではただ聞き手に恐怖を与えて終了である。 旅の宗教者と醜い子供では、身内で全て発生しているために後者がより個人的な次元に終始している感がある。同じ「異人」であっても、物理的な意味での外部からやって来た方と、内部から発生した方とでは属性が異なっている、とも考えられる。 教訓を得ることが目的の一つである昔話と、聞き手・読み手を怖がらせ楽しませることを目的とする怪談では、エピソードの語られる理由がそもそも違うということかもしれない。 追記 都市伝説と昔話「こんな晩」のとの関連については常光徹も何か書いてたはずだけど……肝心のテクストそれ自体が収録された本を実家に置いて来ちまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.13 17:03:54
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