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カテゴリ:読書
「フィンランド国民的叙事詩 カレワラ」(森本覚丹訳・講談社学術文庫)読了。 フィンランドに伝わる口承の伝説を、エリアス・リョンロットが採集して纏めた叙事詩である。 ただ、これは純然たる意味での「神話」あるいは「伝説」と呼ぶことが出来ないであろう。 wikiにも書いてあるとおり、一部にリョンロットによる創作が含まれており、説話の取捨選択も行われている。物語としての整合性を重んじた面があるのだ。 もともと神話を体系化しようとすると、整合性をつけるために何らかの切り捨てなどが行われるものではないかとは思うが(体系化されていない中国神話などは非常に雑然としているという)、この「カレワラ」という作品に関して言えば、「神話」よりも「文学作品」という分類に近いのではないかと思われる。 カレワラには多くの登場人物が在るが、その中で最も強い印象を残すのは大気の娘イルマタルより生まれた英雄ワイナモイネンだろう。 彼は生まれた時から既に老人であり、劇中「老ワイナモイネン」「老いて不抜なるワイナモイネン」「老いて抜け目なきワイナモイネン」などと繰り返し形容されているように、知識・知性の権化とでも呼ぶにふさわしい老賢人である。 その風貌が老いているという事は、あるいは年齢を重ねる事が知性の蓄積であり、初めから老いている彼はその老いた姿でもって知性の体現者として存在しているのかもしれない。 また、彼は歌=魔法の優れた使い手でもある。 これはカレワラ全般に言える特徴だが、「歌う」という行為に何らかの奇跡・もしくは呪力の力が宿っている。 原始、「歌う」という行為は宗教的なそれであったという。神への祈りをより鮮明に表現するために人々は歌唱や音楽を発達させ、最終的には祈りのための用いられていた音楽というシステムそのものに人間の感覚を楽しませる魅力が有る事を発見して、そこから歌唱・音楽は芸能へと変化し始めた。 もしかしたら、ワイナモイネン初めイルマリネンやレミンカイネン達も能くするカレワラにおける歌=魔法とはこうした意味合いが含まれていた時代の名残なのかもしれない。 彼らは歌で歴史を語り、知識を披歴し、不思議な作用を起こす。 単なる芸能・娯楽ではない、超自然的な力を歌に見出しているのである。 そして、老いたる故に比類なき知恵者であるワイナモイネンこそが最も優れた歌い手であるというのは、道理に適った話と言えるのではないだろうか。 かように優れた英雄であるワイナモイネンであるが、彼にも失脚の時はやって来る。 つるこけももの実を食べて処女懐胎した少女・マリヤッタ。 やがて彼女は処女のまま子を産むが、新たな母はまだ身籠っている最中には既に、その子が偉大な存在である事を知っている。 そしてワイナモイネンはマリヤッタの子を殺すべきだと判断するが、その赤子はワイナモイネンの不正を批判し、それによってワイナモイネンは赤子に洗礼を施すことになる。 その後、彼はこの事に激しく怒り、旅に出てしまう。 偉大な英雄であるワイナモイネンが、マリヤッタの子に対しては奇妙な狭量さを見せている。しかも比類なき知恵者のはずの彼の判断は赤子に批判され、逆にやり込められてしまう。 「マリヤッタ」という名前はその語感からも連想できるように聖母マリアを指しており、彼女が処女のまま産んだ赤子とは、すなわちイエスである。 古い英雄は新しい偉大な人物に敗れた。つまり、キリスト教がその勢力を伸張させていくに連れて、古い時代の信仰が追いやられてしまったという歴史の暗喩なのである。 元々の説話ではワイナモイネンは渦巻きに飲まれてしまったそうだが、リョンロットの手になるこの作品においては、彼は人々に再び恩恵をもたらすと宣言した後、船に乗って旅立つ。 あたかも、甥のモードレッド(もしくは家臣のランスロット)との戦いにおける傷をアヴァロンで癒すために人々の前から姿を消した、かのアーサー王をも連想させる。 アーサー王の墓には「ブリテンが危急の際には必ず戻ってきて民を救う」という旨の言葉が刻まれていたそうである。 あるいは神聖ローマ帝国における赤髭王バルバロッサやフリードリヒ2世でも構わない。 英雄はたとえ人々の前から姿を消しても、民衆が乞い願う限りにおいてはいつまでも存在し続けるものらしい。彼の実際の生死ではなく、真に重要なのは民衆が彼を愛し、尊敬していたという事実なのだ。 人々が英雄を求める限り、その願いの中に彼は活躍し、伝説を紡ぎ続ける。 「カレワラ」がフィンランド国民の民族意識を高める事に一役買ったという話も、むべなるかなと言えそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.27 23:20:29
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