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カテゴリ:読書
(※読書会レポートです)
神林長平「Uの世界」(ハヤカワ文庫)読了。 子供の頃に、こんな空想をした事があった。 世の中に本物の人間は自分一人だけで、あとの人間は全て作り物。ロボット、虚構の存在で、中には機械が詰まっている。彼らの感情や言動は全部中身の機械が行っている。周囲の人物も家族も、テレビに映っている有名人も全てが作り物。人間の中身の構造=内臓等を解説するというのは、人間が人間だと自分に信じ込ませようとしている誰かの企みなのだ、と。もちろんそれは子供じみた空想であり、成長するにつれて忘れていったものなのだが、「Uの世界」を読んで、そんな空想を思い出してしまった。 この作品は6編からなる連作短編集だが、主人公はいずれも自分の存在に疑問を抱き、または誰かに疑問を抱かされる事になる。 考えても見て欲しい。自分の意識や存在といったものがいつまでも絶対だと、誰が保証したというのだろう。絶対だと思っているのは自分だけではないだろうか? 記憶は過去の出来事の蓄積であり、同時に自分自身を形成して自分たらしめる重要な要素だが、それが作り物だったとしたら。虚構だったとしたら……。 人間は結局、周囲が真実であるか否かに関係なく、自分の気が付いている意識の内でしかモノを見る事ができないのではないかと思う。個人が個人である限り徹底して「主観」的な見方しかできないような気がするのだ。世界は虚構であり、自分もまたその虚構内部に取り込まれて生きていると、主観が虚構によって瞞着されていても気がつく事がない。 主観を超えた認識を自覚するというのは、人間にはとても難しいと考えてしまう。 だが、「Uの世界」の主人公たちの意識というのは、連続している(ように感じる)。 それぞれ独立した意識を持つ主人公たちはそれぞれ独立した世界を生きるが、必ずどこか一点では相互に繋がり合っている。本来、繋がっていたとしても表面には出て来ないであろう数人の者たちの意識の繋がり合いが確かに見られ、それを個人が自覚している場合がある。 繋がらないはずの互いにおける共通点は、名前も正体も目的も解らない、青いサリーを着た女である。彼女はたびたび主人公たちの前に現れては(登場しない時もあるが…)、その肉体が虚構であることを教えて彼らを赤ん坊の姿にまで還元してしまう。 彼女と共に象徴的に描写されているのは、砂漠に浮かぶ一隻の船。彼女はそこに居る。時たま自ら主人公の前に現れて導く事もある。 漠然とだが、この青いサリーの女は「母」に擬せられているというようにも感じられる。そして、主人公たちそれぞれの世界は母の胎内にある子宮なのだ。彼らが生きる世界はごく限られた、母の胎内でしかない。羊水に満ちた安住の地だ。けれども、それは虚構なのである。安心できる虚構。彼らは胎児である以上、いつかは胎内から生まれ落ちなければならない。何故なら、それが胎児の務めだからだ。彼ら「胎児」たちの世界の出来事は夢であろう。「胎児の夢」……ではさすがに違うだろうが、成人した彼らの姿は夢の世界、空想である。胎児が見る幻かもしれない。彼らが青いサリーの女と出会って赤ん坊の姿になる、というのは、つまり、子宮の内部での夢を見終わり、母の導きによって新しい世界へと産み落とされるという事にも思える。 主人公たちが漠然として覚えている別の世界における主人公たちの記憶は、すなわち胎児たちの夢が幾度も連なって繰り返されているという事にでもなるのだろうか。 今現在、こうして部屋で感想を書いている自分自身ももしかしたら瞞着された主観を通して世界を認識しており、本当はもっと違う形があるのかもしれない。まだ産まれてもいない赤ん坊の夢なのかもしれない。 個人の意識を突き抜けた他者との連続性の獲得は、一人の主観を超越した何か別の認識を発生させずにはおかない。そうした夢をずっとずっと見続ける事が幸福なのかは判らないが、夢から目覚めさせる母の存在は、理解の難しい強い神秘性を感じてしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.04 00:10:51
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