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カテゴリ:読書
オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの画像」(西村孝次訳・岩波文庫)を読了。
「そこには青春のあらゆる率直があり、同時にまた青春のあらゆるひたむきな純情もある。世俗の汚れを身にうけずにきたという感じ」と称されるほどの美青年、ドリアン・グレイ。 彼は、肖像画に描かれた自らの姿の方が歳をとり、肉体そのものはずっと若く青春を謳歌することができれば良いのに、と願う。かくて彼の願いは叶った。 彼がいくら歳をとってもその美しい容姿は一向に衰えを見せなかったのだ。 が、彼を描いた肖像画は、彼が罪を犯して快楽を貪る度に醜く歪み年老いていく。 何とも不条理である。不条理ではあるが、この「肖像画」とは、劇中の終盤で明確に描写されている通り、思い出すたびにドリアンを憂鬱にさせる「良心」とも呼ぶべきものである。 言うまでも無く、「良心」とは人間の精神の中に存在する一側面である。 それは精神上の活動の産物なのだから、その心そのものを抱いている本人にしか自覚する事は出来ない。目に見えたり触ったり、あるいは匂いを嗅いだりなどできない。心そのものなのだから。意識の中にその存在を感じ、自らを咎める内なる声に耳を傾けることで良心は自覚する事ができるのだ。 けれども主人公であるドリアン・グレイの良心とは、すなわち肖像画として意識の外部に具現化された存在なのである。罪悪を重ね、享楽的な生活を繰り返すのは精神の腐敗であろう。それを制止すべき良心の存在を自覚しない限りそうした生活は続くのかもしれないが、本来は見えるはずの無い物を肖像画という形で視覚化してしまったというところに、この小説の妙があるのではないだろか。 醜く朽ち果てていく額縁の中のドリアンは、まさしく罪の累積の結果である。まるで忘れたようになっている自らの良心をよく自覚させるかのように(ドリアンは肖像画の事を思い出す度に憂鬱になった)、彼は肖像画に強烈な印象を刻みつけられている。反面、肉体そのものはいつまでも若く美しい。意識の内でしか発生し得ない良心という存在を、ドリアン・グレイを描いた肖像画が象徴しているとすれば、醜く老いさらばえていくその姿を見るというのは、いわば彼は否応無しに自らを蝕む悪徳と対峙しているのだ。彼は肖像画を見る度に、悪に染まりきった自身の内面を客観視せざるを得ないだろう。いつまでも美貌を保つ肉体と次第に醜悪になる肖像画というこの奇妙な対比は、彼の精神が腐りゆくという現実、そして額縁の中のもう一人のドリアン・グレイ……「理性」「良心」たるドリアン・グレイが、その身を以て自身の腐敗ぶりを教えようとしているのであろか。本来的に内なる声である「良心」が、人間の肉体が犯す悪事に対して独自に警鐘を鳴らすように。 彼はついに、かつて友人を刺殺したナイフを手に取って、すっかり醜く変わり果てた自分自身の肖像画に突き立てた。すると、肖像画はたちまち以前の美しい姿に戻り、逆にドリアン本人の肉体が醜く変わり果て、最後には無残にも彼は死んでしまった。 良心にナイフを突き立てる。良心を殺そうとする。それはすなわち自己の構成要素の否定に繋がるのかもしれない。ドリアン・グレイは肖像画を破壊する事によって悪事を犯した過去との決別を図ったのだ。が、自らの魂そのもの、理性・良心を殺そうとするのは、人間の精神を構成するある一つのものを自ら手放してしまうのである。良心という、肉が犯した悪徳の最後の精神上の受け皿が消滅してしまったとき。彼の肉体に、さらには命に。ドリアン・グレイ自身の、行き場を失った、悪に染まった過去が、恐るべき勢いで跳ね返ってき来たのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.15 22:30:57
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