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カテゴリ:読書
(※読書会レポートです)
ジョージ・オーウェル「動物農場」(高畠文夫訳・角川文庫)を読了。 厳密な意味ではSF小説ではないが、一応、書けるだけ感想を書いてみようと思う。 人間の支配に苦しめられている農場の動物たちが、賢い豚の指導のもとに人間を追い出して全ての動物が平等に暮らせる社会を造り上げる。 しかし、次第に豚による独裁が始まり、恐怖政治が行われるようになる。そうして出来上がったのは、人間が支配するより過酷な圧政が行われる社会だった……という筋である。 見れば判るとおり、特に難しくもない、非常に単純な筋の物語である。 だが、この物語は単なる「動物を主人公とした群像劇」ではない。ある歴史上の出来事、それも、その後長らく世界的な影響を与え続けることになった非常に重要な出来事を批判する物語なのだ。 その出来事とは何か? 「ロシア革命」である。さらに詳述するなら、ロシア革命後のスターリニズム批判の作品なのである。 実際に読んでみればすぐに判る。農場における革命の先駆者となった年老いた豚「メージャー爺さん」はレーニン、独裁者として恐怖政治を行う豚「ナポレオン」はスターリン、ナポレオンの謀略によって亡命せざるを得なくなった豚「スノーボール」はトロツキーを、それぞれモデルとしている。 その他のキャラクターにも明確な形のモデルが存在するようだが、ここでは割愛する。 ナポレオンが自ら教育した獰猛な犬を使って反対派を処刑する様は、粛清によって異分子を抹殺したスターリンの遣り口を彷彿とさせるし、革命に対する意見の相違によって農場を追われたスノーボールは、そのまま世界革命論を唱えてソ連から亡命したトロツキーである。 ソ連で行われた圧政を批判するための寓話であるのが「動物農場」である。けれども、巻末の解説でも語られている通り、この物語は単なるスターリニズム批判の枠を超えた、どうも、奇妙な普遍性の獲得に成功しているようなのだ。 やはり解説の通りにナチス政権下のドイツへと当てはめる事も可能だし、他にいくつものイメージを重ね合わせる事が可能だろう。 それは、「寓話」であるが故の事である。 「動物」という、人間が作り出した政治的イデオロギーから本来的に切り離された世界の住人だからこそ創り上げられた普遍性なのである。 そして、その普遍性は、およそ「革命」という大事業そのものが、その根の部分に抱えている裏面を痛烈に抉り出さずにはおかない。 初めは高邁な理想の元に遂行された革命であっても、指導的地位にある者が長く権力の座に居座り続けると、次第にその行状は腐敗していく。終いには自らの利益のためにのみ政治を欲しいままにし始める。当初は腐敗した古い体制を刷新した事による旧弊の打破に成功したとしても、新たな体制が時間の経過とともに確固とした定着を見せる時、その中には倦怠と停滞が生まれ始めるのだ。腐敗はそこに巣食う。それはナポレオンが動物たちの自由と平等を謳った法律を改竄して豚たちに都合の良い国を造ってしまったように、である。 平等を目指して造られたはずの社会は、また新たな特権階級を生み出してしまったのだ。権力という絶対的なパワーには、それだけの魔性が潜んでいるのである。 いや、ひょっとしたら、普段は対立しているスノーボールとナポレオンの意見が珍しく一致し、豚だけが他の動物よりも沢山の食料を貰えると決まった時。他の動物たちは、それが何を意味するのか気が付いていなかったのかもしれない。それが、腐敗の端緒だったかもしれないという事に。圧倒的な権力の前には、「平等」という美辞麗句は紙屑同然、風前の灯火でしかないのだろうか。 では、他の動物たちはどう思っていたのか? 頭の悪さ故に洗脳され、ナポレオンの忠実な部下と化した羊たち以外の動物は? 不思議な事に、彼らは不満を抱く様子があまり無い。もっとも、表だって不満を表明したものはあっという間に粛清されるのだが。 彼らは、言うまでもなく革命によって誕生した新たな支配者階級=特権階級とは違う層だ。つまりは「民衆」なのだ。 動物たちの姿から連想される民衆は愚昧だ。大衆は無知だ。 だが、決して馬鹿ではない。ナポレオンを初めとする豚たちが権力を握り始めてから、自分たちの生活が段々と悪くなっているのを多少は自覚している。けれどもその度に宣伝係の豚「スクィーラー」によって丸め込まれてしまうのであった。 彼らは思う。「それでも人間の支配よりは良い」と。 彼ら動物たち=民衆には「革命」よって得られる安寧しか希望が無い。彼らは、明日の生活が今日よりも良くなる事を夢見て厳しい労働を重ねる。権力者の腐敗を何も知らず、ただ希望だけが彼らの挫けそうな足を支えているのだった。それはあまりにも哀しい。哀しいが、愚直なまでに現体制の枠型に収まったまま、きっとより良くなってくれる事を願い続けることこそが、やはり民衆の本質的なものではないだろうか。 自分たちが努力し、勝ち取った結果が今現在の社会だという自負と、旧体制の苦しみを繰り返したくないという願いが、彼らに何よりも苦しみを耐える力を与える。そうでもしなければ、あまりにも遣り切れないから。けれども、後者は次第に消し去られていく。支配者層は生産高の順調な上昇を盛んに発表する。それが正しいのか間違っているのかも、時代の流れとともに記憶の風化に晒されるのだから。独裁者が君臨し、都合のいい情報だけを民衆に与える社会ではなおさらだ。 豚を除く動物たちが現体制の歪みに気が付いて反乱めいたものを起こすのは、もっともっと、まだまだ、先の事になるだろう。けれども新しい革命によって新しい指導者が立てられても、また豚たちと同じ轍を踏んでしまわないとも限らない。 ただ、ベンジャミン爺さんだけは、自分の長い一生のこまごまとしたことまで全部おぼえているが、現に、事態が著しく良くなったり悪くなったりしたおぼえは一度もないし、また、著しく良くなったり悪くなったりするはずもないものなのだ、ときっぱり言った――空腹と、辛苦と、失望、これが、いつも変わらぬこの世の定めなのだ、と彼はいうのだった。 (第十章 136~137p) まさしくその通りであろう。 結局はまた腐敗し、再生、腐敗を繰り返すのである。 いつの間にか豚たちが二本脚で立ち上がり、人間の服を着、人語を解するようになっていったように。 社会の運営には指導者が必要である。エリートが必須である。だが、たとえ清新の人々であっても権力を握る事は私欲の暴走と隣り合わせ、民衆はその度ごとに苦難を味わう。かつて最も嫌悪の対象であった人間の文化を真似るようになった豚たちが、その寓意をよく体現しているように思う。 革命の主人公であるはずの民衆は、ややもすれば蚊帳の外に置かれかねない。そうした状況が歴史上において繰り返される限り、「動物農場」が持つ普遍性は、決して消える事が無いであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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